▲「富士塚」だけで日記が書けます♪▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
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横浜神奈川区を中心にまわる「七富士参り」に向かいました。
京急の北品川駅を出ると、私は必ずゴソゴソとカメラを取り出します。
そして新馬場近く。



走行中の電車からこんなにきれいに品川富士が撮れたことはない。
縁起のいいこと♪

待ち合わせの「仲木戸」駅で5人のうち4人が出会い、さて、先達とはどうやって会うのだろうかと思っていたら、
「あ♪ あれに見えるは先達さん〜♪」
宝冠かむりの布をはためかせ、白装束の御仁はギコギコと自転車をこいでいらっしゃいました。



印象的な登場シーンに一同感動すら覚えます。



「そうそう。○○側のね、○○で。。。」
合流するひとりと連絡をとる先達。携帯持つ姿も絵になります(背後には赤い京急の電車が通る)。



思わず行衣も撮っちゃう。渋い!



先達とは、昨年吉田の火祭りの時にお世話になりました丸金講神奈川講社の岩岡先達のことです。



この日めぐった富士塚(浅間神社の浅間山を含む6富士)と起点/終点の熊野神社はこんな位置関係。

つづく。。。
ひとつ前の記事の中から、「富士権現旧地」(富士権現は、駒込富士神社の築山=富士塚に勧請されました。毎年行われる駒込富士のお山開きには、「下浅間」の社の中に「富士大権現」と書かれた古い扁額を見ることができます)にピンクの印をつけた画像に、



赤い印をつけました(左上)。

「心字池」は現在の三四郎池です。よく見ると、その東北の岸に「氷室」の文字が見えます。氷室はふたつあります。

なんでこんなところに氷室があるのか。

氷室とは、その名のとおり、氷を貯蔵するところです。冷蔵庫のなかった昔には、冬期にできた天然氷を保存する場所でした。カタチは、小屋だったり洞窟だったりしました。

さて、ここでちょっとトリビア♪

かつて、金沢の加賀藩から江戸の将軍家に「雪を献上」するならわしがありました。石川県の白山の雪(冬期、氷室に詰め込んでいたもの)を江戸に納めるものでした。5日間かけ、金沢から江戸まで運んだそうです。

後に、(雪が転じて)氷を献上するようになりましたが、金沢から運ばれた氷を、いったん本郷の氷室に貯蔵し、六月朔日(ついたち)に合わせて江戸城に納めるようになったそうです。

それを「氷室ご祝儀の氷(雪塊)献上」と言い、加賀藩では庶民の間にも「氷室の節句」が定着しました。(現在の金沢でも風習が残っているそうです)

そして江戸の町でも、六月朔日に行われるその風習を「賜氷節」と呼び、年中行事として広く知られるようになりました。民間では「氷の朔日」と呼んで親しみました。

夏期、氷を手にすることのできなかった庶民は、六月朔日、寒水で作ったという餅(氷室まんじゅう)を氷に見立てて食したそうです。(氷室まんじゅうは今でも、金沢市内や東京本郷の和菓子屋さんでも売られています)

話がややこしくなってきましたが、要するにこういうことだと思います。加賀藩の「氷献上」の風習が江戸の町でも知られ、本郷富士(加賀藩屋敷内にあった富士山)が駒込に移された時、「氷の朔日」が「富士山のお山開き」と同じ六月朔日であることから、江戸における「六月朔日=富士詣で」になったのではないかと。

行事に関しては偶然なのか故意なのかはわかりませんが、いずれにしろ、六月朔日は季節の変わり目、つまり「夏のはじまり」であるわけですから、風物詩としての複数の行事が同じ日だったとしても不思議はありません。

ちなみに、江戸の加賀藩邸に運びこまれていた「氷室ご祝儀の氷(雪塊)献上」は、金沢からのほかに、富士山の氷穴内で採取した氷塊を利用したというの記録もあるそうです。

「六月朔日には富士の大宮より一里奥、宮山と申すところより氷を献上いたし候、五月晦日の夜より山をかつぎ出し申し候、三尺四寸ばかりに切り候氷、駿河の御城へ朔日に上り申し候刻は、六七寸四方ばかりに成り申し候よしに候、江戸へ献上の氷は(御城へ)上り申し候刻、二寸四方ばかり成り申し候よしに候」

幾重にもつながる「加賀藩」「白山の雪(氷)」「氷の朔日」「本郷の氷室」「富士の氷」「駒込富士」「富士詣で」の関連は面白いですね。

このへんは、図式化してあらたに本の中で紹介したいと思っています。

いずれにしろ、夏は富士のお山開き。そして氷。
無類のかき氷マニアは、富士山と御縁があるのかもしれませんよ〜♪
もったいつけてるわけではないですが、つい記事のつづきが空いてしまいます〜。
やること山積、貧乏暇ナシ(笑)ですから。。。

とりあえず、ひとつ前からのつづき。



旧加賀藩主前田侯爵邸の遺物です。場所は、赤門の南側(赤門に向かって右側)。



近くには、理科二類・生物学科の棟があります。このあたり、なんだかトロピカルで居心地よし。



花壇には各種のプラントが植えられていました。江戸時代の資料には南天の素晴らしき図が。とてもいい!



独特の空気に癒されながら、散策してみました。古きよき建物のまわりは、時が止まったかのよう。



一帯は、重厚かつ明るさを兼ね備えたレンガ造りの建物(校舎)がたくさんあります。やっぱりいいな〜。古い建物。



この日、私が用があったのは赤門の北側にある福武ホールでした。ちょうど2年前、安藤忠雄氏の設計によって竣工されました。情報学環の一端で最先端の施設としての目的を持っています。着工にあたり、地面を掘りおこしたら、過去の遺物がザクザクと出たそうです。ここだけでなく、赤門のまわりには遺跡の宝庫。現在も発掘が行われているようでした。(上の画像に見えているのは、総合図書館です)

と、ここまでは富士塚に全く無関係のコト。



赤門の東にある赤門総合研究棟、



それに続く経済学研究棟(画面右側)が、富士塚ゆかりの地です。(正面は医学部)



この一角(現在の経済学研究棟の東端)にさしかかったとき、ここに富士塚があったと直感しました。

南だ東だと言ってもわからないので、



現在の敷地マップをアップ。わかりやすいように、本郷通りからキャンパスを向いた位置です。画面左が北側。福武ホールはコミュニケーションセンターと書かれてるとこ)



またまた「江戸情報地図(安政3年および現在)」から。「赤門」という文字は私の落とし込みですが、その右上にある円形の緑がかつての富士山です。うっすらと見える現在の地図からも、富士山は赤門総合研究棟ではなく、経済学研究棟の東端のあたりだったとわかります。(赤門は1903年、西に15mほど動かされたそうです)



もうひとつ。ピンクの円形が「富士権現旧地」であり、つまり富士山でした。(1840-1845年頃)
研究家の間ではこれを「本郷富士」とよんでいます。底径は20mほど。

本郷富士つまり椿山は、かつて古墳だったのではと言われていました。赤門付近に遺跡もあることから、古墳と考えるのも自然な発想ですが、どうやらそうではなかったらしい。

この近くの弥生町で、弥生式土器を発見した人物のひとり、有坂ショウ蔵(ショウ:金へんに召)という人物が、のちに椿山を発掘し古墳ではなかったことを結論づけたそうです。(ちなみに音楽評論家の有坂愛彦氏はショウ蔵の息子です)

さて、いろんな地図を見ていると、あれこれ確かめたくなります。家にあった古地図(復刻版)を開いてみたら、鳥瞰図っぽいですが、明治30年の文京区あたりがデフォルメされておりました。



下は本郷キャンパスから上は駒込富士神社までトリミング。上が北です。



寄ってみたら椿山らしき山が描かれていたので、グリーンに色づけしてみました♪

つづく。。。
かつて東大赤門の近くに「富士山」がありました。

何年か前の駒込富士のお山開きで、そのことを知りました。
教えてくれたのは、東京大学/コロンビア大学に籍を置く宗教学者のM.G.さん(イタリアの方)でした。

「駒込富士は昔、東大の中にあったんですよ」

駒込富士が最初から富士塚でなかったことは知っていましたが、もともと東大本郷キャンパス内にあったなんて! 椿山と呼ばれていた築山が近年まであったことがわかり、ずっと気になっていました。

正確には「その一帯が加賀藩のお屋敷になる前から、小山に富士権現社を祀り、富士山と呼んでいた。後に神社が駒込にある小山に移され、それが駒込富士となった」
高田富士のできる前のことです。

椿山とは明治以降の呼び名です。



散る直前の桜がきれいでした。赤門の右奥に、赤門総合研究棟が見えます。そのあたりに椿山があったそうな。この建物の建築のため、60年代に完全に姿を消しました。



赤門は少しずらされたそうですが、明治時代の写真には、こんもりした山(椿山)が写っています。

赤門といえば学生の頃行ったきりでした。上野から歩いて行ったかどうかは記憶にないですが、その頃私のいとこが本郷キャンパスで物理を勉強していて、彼に用があって待ち合わせた場所。

本当は、カレーで有名な「喫茶ルオー」に行きたかったけれど、「授業があるから〜」と忙しそうだったので遠慮しました。用といっても借りていた楽譜を返すだけだったし。ちなみに、そんな勉強熱心ないとこは、物理学者・小柴昌俊氏のチームで研究し、現在UCLAで教えています。



で、加賀藩のこと。
前田侯爵邸の跡地であることは、こんな看板からもわかります。

つづく。。。
私の富士塚めぐり開始と、沖縄との出会いはほぼ同時です。
(当時は八重山オンリーでしたが)

当初、八重山に行った目的のひとつは、石垣市立八重山民俗博物館にある、





中国から持ち込まれた「風水書」を見るためでした。(1998年)

江戸の町づくりの根本を成した風水と、富士塚にはつながりがあるかもしれない。
そんな(オモシロイ)仮説を聞きワクワクしていたところ、石垣島に行けば昔の風水書に出会える、と知った私はじっとしていられなかったのでした。

博物館で対面した風水書は漢字ばかりで読めなかったけれど、五行思想である「木火土金水(もくかどごんすい)」の5つのマークや、墓相は興味深い。沖縄や八重山でよく見られる亀甲墓(かめこうばか)の構造も、風水が元になっているのがわかります。







火や土のシンボルは面白いですね。
上の画像は'98年、NHKBSで放送された番組からのショットです。当時、「富士塚がキニナル」と言っていた私に、「荒俣 宏の『風水で眠れない』」という番組の録画ビデオが届きました。





番組では随所で「風水とは何か」をわかりやすく説明していました。また、30分のドラマ『東京龍 TOKYO DRAGON』は、荒俣氏の小説「シム・フースイ」を下敷きにしたもので、風水師の黒田龍人(椎名桔平)が与那国島出身の霊能者・有吉ミズチ(中山エミリ)と共に、 東京に長雨をもたらしている「東京龍(気の流れ)」を鎮めようとするストーリー。なかなか迫力ありました。

ご覧になった方はいますか?



最終回(4回連続)には、荒俣さんと建築家の故・毛綱毅曠(もづなきこう)氏による対談もあり。

西洋では、土地を人の体に見立てる(ケルト民族の思想も面白い etc.)けれど、東洋では龍や虎が守っているという考えがありました。等々。

そして、江戸は風水的にどうつくられたのか、京都とどう違うのか。
風水的に吉相の土地は、京都のように山に囲まれている配置(当然ながら川の位置も明確)。でも、近くに山がなく、水びたしだった江戸は「工夫をしなければただの荒れ地」でした。

よく言われるように、徳川家康は(風水師・天海の助言で)江戸城に富士山の気を取り込む設計をしましたね。富士山が離れた位置にあるため、京都のような碁盤の目のような町作りではダメで、渦巻き状に富士山のパワー(龍脈)を呼び入れた。そしてそのパワーが集まる「龍穴」に江戸城を築いた。

東京湾に流れていた利根川水系の治水や、皇居の壕を渦巻きにつくったのは、龍脈を引き込むためでした。

面白かったのは、荒俣/毛綱両氏が、「富士塚も江戸を繁栄させる風水的役割をしたのではないか」と盛り上がったところ。(話はラーメンの上のナルトの渦巻きにまで及びました)

富士講が富士塚をつくったのはあくまでも信仰のためですが、結果的に富士山の「地の気」を呼び寄せた効果はあったと思います。

気功の先生によると、地の気は「西から東の方向に放出される」そうです。おそらく天海はそこを読み取り、家康が富士山の気を引き入れる江戸改造計画に出たのでしょう。

富士山のパワーは今でも東京に注いでいます。家康に感謝すべきかもしれません。


↑荒俣 宏著「異都発掘」より転載

さて、荒俣氏が熱弁をふるっていた「富士塚風水説」はさておき、少なくとも新宿の成子富士は、風水的に見ても重要な位置にあります。(荒俣さんが富士塚を語る時に成子富士を選ぶのはその理由です)

「仙掌格」とは、玉を抱く手の形のような吉相の地形のこと。江戸城は、この仙掌格といい、渦巻き状のお壕といい、繁栄する条件をそなえていたことになります。

面白いですね〜♪
こちらも友人からのメールで知りました。31日の読売新聞の記事。



修験者は古くから登っていましたが、庶民の登山の歴史はあまり裏づけがなかったようです。江戸時代の富士講は知られていますが、それ以前の中世にすでに登っていたと思える古銭が出土したらしい。発掘されたところは、2合目の冨士御室(おむろ)浅間神社。でも、渡来銭ってどんなもの?

ちなみに、江戸時代御室浅間は女人結界の場で、当時女性もここまでは登って来られました。でも林の中で眺めがイマイチだったため、実際は夜ここで籠り、翌朝これより1km上(女人天上という場所があり)を目指して御来光を拝んだそうです。

御室浅間は、富士塚にもよく再現されています。
ここも行ってみたいな〜。
本に書いた富士塚が全部ブログに出ているとは限りません。
何かの都合でアップしそびれたか、別のカテゴリーに吸収したか。
ひとつの画像を探していると、迷路に迷い込みます〜〜。

ええっと。この画像を探してた。



葛飾区、飯塚富士の猿のゆび。

なぜかというと、



またまた猿の指がついた紋に出会ったからです♪

上は、猿の姿をした「か」の文字。
下は、猿の姿をした「不」の文字。

さて、下の文字を使う「山不二講」の造った富士塚に行って来ました。

つづく。。。
横浜に用事があって、メトロ日比谷線で向かいました。
車中、寝てしまいましたが、乗り換え駅の中目黒手前で、目が覚めました。地上に出たからだけでなく、何かに呼びとめられた感覚が確かにありました。目をあけると、ちょうど元富士のあった高台が目の前すぐそば、ほぼ同じ高さに飛び込んで来ました♪

あっそうだ!電車に乗れば最短距離で見られるわけか!
「気づかせてくれてありがとう♪」そんな言葉がついて出ました。
ふたつ前の記事の追記が書けるかな、と中目黒で下車しプラットフォームの端まで写真を撮りに行きました。



正面のこんもりした茂みあたりが、元富士のあったところです。
今は塚の形はないけれど、氷川神社に移された富士塚を「元富士」と言うならば、ここは「元富士跡」。でも最近「姿はなくてもその場所を富士と呼びたい」気持ちになることがあります。その場所からひしひしと伝わる「何か」がそうさせるのでしょう。私は密かにここを「元々富士」と呼んだりします。



またまた、江戸情報地図を使い、現在の地図と江戸時代の古地図を重ねたものに、いくつか着色しました。

左下の中目黒駅プラットフォーム(緑色)の端にピンクの★マークをつけました。ここから撮ったものが上の画像となります。目切坂の途中にあった元富士(赤色)をよく見ると、かつて塚のあったところが削られて線路がかかっています。私が目を覚ました地点が、まぎれもなくそこだったんです!

ちなみに、かつて蛇行していた目黒川は現在形が変わっています(濃い水色)。



別の日に坂の途中から見上げた図です。線路の向こうに高台とマンション。



鎗ケ崎の交差点からまわり込むとこうなります。



高台はマンションの敷地内なので、目黒区が立てた看板も入口にあり。

ここに登拝する富士塚はないけれど、この近辺を歩くだけでも面白いハズ。歩いているうちに、その地形を体で感じ、坂と富士塚との関係がだんだんわかってくるからです。

目黒に造られた富士塚は、すべて坂の上つまり高台のエッジにあります。目黒区は坂の多いことで知られていますが、富士塚を造りやすい好条件……富士山のよく見える場所であること、坂を利用して塚を造りやすいことがあったと思われますが、

富士塚が坂の上にあるのは、目黒に限ったことではありません。東京や神奈川の起伏のある土地には、特に多い!
(アースダイバーを読んだ方はわかりやすいでしょうが)もともと台地(洪積台地)の端っこに神社が多くありますね。東京では、南西側の斜面(神奈川では西側多し)が富士山に面しているため、その条件を有する神社には富士塚が多いのです。神社があったから塚を造ったのか、地形が適していたからそこに造ったのか、それとも土地の霊性がそうさせたのか。そのへんはよくわかりませんが(たぶん全部ね)。

熱中倶楽部ブログの大山編集長も、カシミール3Dを使って予測してましたね♪
そう言えば、大山さんにお会いした時、「白子川と大泉富士の地形の関係」に話が及びました。はい。大泉富士も、(和光市側に続く)台地の南斜面に造られた富士塚。斜面があるということは、近くに川がある。川のある谷に向かった地形ですからね。このセットを頭に置いておくと、地図から富士塚を見つける楽しみも出てきます♪

あ、もともと海だった土地(沖積低地)にはあてはまりませんよ。
竹富島のことにふれ、もうすぐ竹富島の種子取祭だと気づきました。

今年は行けないけれど、一昨年の祭りでアップした、ミルク(弥勒)の登場を思い出し、ちょっと気になることが出てきました。

子供達のかぶりもの、「サージ」というのですが、



何かに似ていますね♪



「宝冠」です。

「山村民俗の会」発行「あしなか」の「修験道覚え書」によると、山伏の頭襟(ときん)つまり宝冠(ほうかん)は、即身即神(その身そのまま神)の体性を表わすもので、五智円満の神の宝冠とのこと。五智とは神の五つの智恵、即ち人間として覚るべき五つのことがら(大きく円満な心、円満で平和な心、正確に観知する心、働きに無駄のない心、神に通じ覚りに通じる心)だそうです。

長さ1丈2尺(1尺が30.3cm/1丈=10尺なので、1丈2尺は約3.639m !?)の白色のサラシを巻きます。



これはその冠り方(富士吉田市教育委員会の資料から部分転載したイラスト)。

上の写真、火祭りの時の3人は、微妙に違う個性が出ていますが、この基本で結んでいるようでした。斎藤先達(左)によると、「いざという時にこれを解いて命綱として使うこともできる」。

では、子供が冠っているサージの由来はなんだろう???

(サージにはいろんな種類があって、エイサーでよく見るサージは違う冠り方)

多少、結び方が違うかもしれませんが、見た目は宝冠とよく似ています。
ナゼかしら。
う〜ん。う〜ん。う〜ん。

こんなサイトに行き着きました(竹富島では「サジ」と言うらしい)が、それ以上のことはわかりません。
今年の品川富士のお山開きは、7月5日でした。
昨年の感動を再び!と思いつつ、当日は朝8時からのお掃除どころか11時からの儀式にも間に合いそうになかったので、泣く泣く断念いたしました。



この素晴らしい御神体を拝むことができず、本当に残念でした。
行かれた方はいますか?

昨年、講の方たちにまじって読ませていただいた「お伝え」は、目で追うだけでも大変でした。でも、言霊は確かに波動のパワーがあり、声や鈴(レイ)の音は、その場を浄め、人に感動を与えるものでした。

先達さんが解説してくださったことも貴重なことでした。

品川丸嘉講では、昭和63年から使っていたお伝えに代わり、昨年新しく作り変えました。そんなこともあり、古いほうを一冊くださいました。(嬉しかったです。感謝しきれません!)

ほんのちょっとだけですが、アップします。先代の先達が作られたお伝えです。



横長に綴じられたお伝えの最初のページ。



富士山がいつどのように「出現」したかが出ています。



六根清浄の御祓はこんなです。他には、加持祝詞なども含まれていて興味深いです。神道の部分、仏教の部分もいろいろ。

お伝えは、お題目をはじめとして基本は同じですが、各講によってだいぶ違います。講がたどった歴史も違うし(教派神道の傘下にあった時期もあり)、加えられる内容もさまざまです。



同じ丸嘉講でも清瀬市中里講では、こんな感じ。

いずれにしろ、読誦する声を聞けたらそれはとてもありがたいことですね。最近つくづく思います。文字のパワー!言霊パワー!


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プロフィール
HN:
芙蓉庵 (Yoko Arisaka)
性別:
女性
自己紹介:
▼▼▼【富士塚】とは▼▼▼
…………………………………
富士山に登りたくても登れな
い人たちの為に、江戸時代に
関東各地に造られた「人造富
士山」のこと▲です。富士山
を信仰する▲▲▲富士講によ
るもので▲▲▲▲▲したが、
地元に▲▲▲▲▲▲▲ミニチ
ュア▲▲▲▲▲▲▲▲▲の富
士山が出来たことで、多くの
人が登山でき、大流行しまし
た。民衆のパワーですね♪♪
富士山の溶岩をのせ、一合目
から頂上まで登れるようにな
っています。意外なところに
ひっそりたたずんでますよ。
…………………………………

▼▼▼【芙蓉庵】とは▼▼▼
…………………………………
美しい作品も好きだけど、コ
ンセプトありきで表現するこ
とに喜びを感じるビジュツ家。
表現形態はこだわりません。
現在、富士塚のコンセプトに
インスパイアされ、色々な媒
体で表現。著書の【ご近所富
士山の謎】【富士塚ゆる散歩】
も、私にとっては作品です。
なぜ富士塚か……それは、海
外生活での体験から。詳しく
は本のあとがきに記してあり
ます。

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