▲「富士塚」だけで日記が書けます♪▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
ひとつ前の記事の中から、「富士権現旧地」(富士権現は、駒込富士神社の築山=富士塚に勧請されました。毎年行われる駒込富士のお山開きには、「下浅間」の社の中に「富士大権現」と書かれた古い扁額を見ることができます)にピンクの印をつけた画像に、 赤い印をつけました(左上)。 「心字池」は現在の三四郎池です。よく見ると、その東北の岸に「氷室」の文字が見えます。氷室はふたつあります。 なんでこんなところに氷室があるのか。 氷室とは、その名のとおり、氷を貯蔵するところです。冷蔵庫のなかった昔には、冬期にできた天然氷を保存する場所でした。カタチは、小屋だったり洞窟だったりしました。 さて、ここでちょっとトリビア♪ かつて、金沢の加賀藩から江戸の将軍家に「雪を献上」するならわしがありました。石川県の白山の雪(冬期、氷室に詰め込んでいたもの)を江戸に納めるものでした。5日間かけ、金沢から江戸まで運んだそうです。 後に、(雪が転じて)氷を献上するようになりましたが、金沢から運ばれた氷を、いったん本郷の氷室に貯蔵し、六月朔日(ついたち)に合わせて江戸城に納めるようになったそうです。 それを「氷室ご祝儀の氷(雪塊)献上」と言い、加賀藩では庶民の間にも「氷室の節句」が定着しました。(現在の金沢でも風習が残っているそうです) そして江戸の町でも、六月朔日に行われるその風習を「賜氷節」と呼び、年中行事として広く知られるようになりました。民間では「氷の朔日」と呼んで親しみました。 夏期、氷を手にすることのできなかった庶民は、六月朔日、寒水で作ったという餅(氷室まんじゅう)を氷に見立てて食したそうです。(氷室まんじゅうは今でも、金沢市内や東京本郷の和菓子屋さんでも売られています) 話がややこしくなってきましたが、要するにこういうことだと思います。加賀藩の「氷献上」の風習が江戸の町でも知られ、本郷富士(加賀藩屋敷内にあった富士山)が駒込に移された時、「氷の朔日」が「富士山のお山開き」と同じ六月朔日であることから、江戸における「六月朔日=富士詣で」になったのではないかと。 行事に関しては偶然なのか故意なのかはわかりませんが、いずれにしろ、六月朔日は季節の変わり目、つまり「夏のはじまり」であるわけですから、風物詩としての複数の行事が同じ日だったとしても不思議はありません。 ちなみに、江戸の加賀藩邸に運びこまれていた「氷室ご祝儀の氷(雪塊)献上」は、金沢からのほかに、富士山の氷穴内で採取した氷塊を利用したというの記録もあるそうです。 「六月朔日には富士の大宮より一里奥、宮山と申すところより氷を献上いたし候、五月晦日の夜より山をかつぎ出し申し候、三尺四寸ばかりに切り候氷、駿河の御城へ朔日に上り申し候刻は、六七寸四方ばかりに成り申し候よしに候、江戸へ献上の氷は(御城へ)上り申し候刻、二寸四方ばかり成り申し候よしに候」 幾重にもつながる「加賀藩」「白山の雪(氷)」「氷の朔日」「本郷の氷室」「富士の氷」「駒込富士」「富士詣で」の関連は面白いですね。 このへんは、図式化してあらたに本の中で紹介したいと思っています。 いずれにしろ、夏は富士のお山開き。そして氷。 無類のかき氷マニアは、富士山と御縁があるのかもしれませんよ〜♪
もったいつけてるわけではないですが、つい記事のつづきが空いてしまいます〜。
やること山積、貧乏暇ナシ(笑)ですから。。。 とりあえず、ひとつ前からのつづき。 旧加賀藩主前田侯爵邸の遺物です。場所は、赤門の南側(赤門に向かって右側)。 近くには、理科二類・生物学科の棟があります。このあたり、なんだかトロピカルで居心地よし。 花壇には各種のプラントが植えられていました。江戸時代の資料には南天の素晴らしき図が。とてもいい! 独特の空気に癒されながら、散策してみました。古きよき建物のまわりは、時が止まったかのよう。 一帯は、重厚かつ明るさを兼ね備えたレンガ造りの建物(校舎)がたくさんあります。やっぱりいいな〜。古い建物。 この日、私が用があったのは赤門の北側にある福武ホールでした。ちょうど2年前、安藤忠雄氏の設計によって竣工されました。情報学環の一端で最先端の施設としての目的を持っています。着工にあたり、地面を掘りおこしたら、過去の遺物がザクザクと出たそうです。ここだけでなく、赤門のまわりには遺跡の宝庫。現在も発掘が行われているようでした。(上の画像に見えているのは、総合図書館です) と、ここまでは富士塚に全く無関係のコト。 赤門の東にある赤門総合研究棟、 それに続く経済学研究棟(画面右側)が、富士塚ゆかりの地です。(正面は医学部) この一角(現在の経済学研究棟の東端)にさしかかったとき、ここに富士塚があったと直感しました。 南だ東だと言ってもわからないので、 現在の敷地マップをアップ。わかりやすいように、本郷通りからキャンパスを向いた位置です。画面左が北側。福武ホールはコミュニケーションセンターと書かれてるとこ) またまた「江戸情報地図(安政3年および現在)」から。「赤門」という文字は私の落とし込みですが、その右上にある円形の緑がかつての富士山です。うっすらと見える現在の地図からも、富士山は赤門総合研究棟ではなく、経済学研究棟の東端のあたりだったとわかります。(赤門は1903年、西に15mほど動かされたそうです) もうひとつ。ピンクの円形が「富士権現旧地」であり、つまり富士山でした。(1840-1845年頃) 研究家の間ではこれを「本郷富士」とよんでいます。底径は20mほど。 本郷富士つまり椿山は、かつて古墳だったのではと言われていました。赤門付近に遺跡もあることから、古墳と考えるのも自然な発想ですが、どうやらそうではなかったらしい。 この近くの弥生町で、弥生式土器を発見した人物のひとり、有坂ショウ蔵(ショウ:金へんに召)という人物が、のちに椿山を発掘し古墳ではなかったことを結論づけたそうです。(ちなみに音楽評論家の有坂愛彦氏はショウ蔵の息子です) さて、いろんな地図を見ていると、あれこれ確かめたくなります。家にあった古地図(復刻版)を開いてみたら、鳥瞰図っぽいですが、明治30年の文京区あたりがデフォルメされておりました。 下は本郷キャンパスから上は駒込富士神社までトリミング。上が北です。 寄ってみたら椿山らしき山が描かれていたので、グリーンに色づけしてみました♪ つづく。。。
かつて東大赤門の近くに「富士山」がありました。
何年か前の駒込富士のお山開きで、そのことを知りました。 教えてくれたのは、東京大学/コロンビア大学に籍を置く宗教学者のM.G.さん(イタリアの方)でした。 「駒込富士は昔、東大の中にあったんですよ」 駒込富士が最初から富士塚でなかったことは知っていましたが、もともと東大本郷キャンパス内にあったなんて! 椿山と呼ばれていた築山が近年まであったことがわかり、ずっと気になっていました。 正確には「その一帯が加賀藩のお屋敷になる前から、小山に富士権現社を祀り、富士山と呼んでいた。後に神社が駒込にある小山に移され、それが駒込富士となった」 高田富士のできる前のことです。 椿山とは明治以降の呼び名です。 散る直前の桜がきれいでした。赤門の右奥に、赤門総合研究棟が見えます。そのあたりに椿山があったそうな。この建物の建築のため、60年代に完全に姿を消しました。 赤門は少しずらされたそうですが、明治時代の写真には、こんもりした山(椿山)が写っています。 赤門といえば学生の頃行ったきりでした。上野から歩いて行ったかどうかは記憶にないですが、その頃私のいとこが本郷キャンパスで物理を勉強していて、彼に用があって待ち合わせた場所。 本当は、カレーで有名な「喫茶ルオー」に行きたかったけれど、「授業があるから〜」と忙しそうだったので遠慮しました。用といっても借りていた楽譜を返すだけだったし。ちなみに、そんな勉強熱心ないとこは、物理学者・小柴昌俊氏のチームで研究し、現在UCLAで教えています。 で、加賀藩のこと。 前田侯爵邸の跡地であることは、こんな看板からもわかります。 つづく。。。
私の富士塚めぐり開始と、沖縄との出会いはほぼ同時です。
(当時は八重山オンリーでしたが) 当初、八重山に行った目的のひとつは、石垣市立八重山民俗博物館にある、 中国から持ち込まれた「風水書」を見るためでした。(1998年) 江戸の町づくりの根本を成した風水と、富士塚にはつながりがあるかもしれない。 そんな(オモシロイ)仮説を聞きワクワクしていたところ、石垣島に行けば昔の風水書に出会える、と知った私はじっとしていられなかったのでした。 博物館で対面した風水書は漢字ばかりで読めなかったけれど、五行思想である「木火土金水(もくかどごんすい)」の5つのマークや、墓相は興味深い。沖縄や八重山でよく見られる亀甲墓(かめこうばか)の構造も、風水が元になっているのがわかります。 火や土のシンボルは面白いですね。 上の画像は'98年、NHKBSで放送された番組からのショットです。当時、「富士塚がキニナル」と言っていた私に、「荒俣 宏の『風水で眠れない』」という番組の録画ビデオが届きました。 番組では随所で「風水とは何か」をわかりやすく説明していました。また、30分のドラマ『東京龍 TOKYO DRAGON』は、荒俣氏の小説「シム・フースイ」を下敷きにしたもので、風水師の黒田龍人(椎名桔平)が与那国島出身の霊能者・有吉ミズチ(中山エミリ)と共に、 東京に長雨をもたらしている「東京龍(気の流れ)」を鎮めようとするストーリー。なかなか迫力ありました。 ご覧になった方はいますか? 最終回(4回連続)には、荒俣さんと建築家の故・毛綱毅曠(もづなきこう)氏による対談もあり。 西洋では、土地を人の体に見立てる(ケルト民族の思想も面白い etc.)けれど、東洋では龍や虎が守っているという考えがありました。等々。 そして、江戸は風水的にどうつくられたのか、京都とどう違うのか。 風水的に吉相の土地は、京都のように山に囲まれている配置(当然ながら川の位置も明確)。でも、近くに山がなく、水びたしだった江戸は「工夫をしなければただの荒れ地」でした。 よく言われるように、徳川家康は(風水師・天海の助言で)江戸城に富士山の気を取り込む設計をしましたね。富士山が離れた位置にあるため、京都のような碁盤の目のような町作りではダメで、渦巻き状に富士山のパワー(龍脈)を呼び入れた。そしてそのパワーが集まる「龍穴」に江戸城を築いた。 東京湾に流れていた利根川水系の治水や、皇居の壕を渦巻きにつくったのは、龍脈を引き込むためでした。 面白かったのは、荒俣/毛綱両氏が、「富士塚も江戸を繁栄させる風水的役割をしたのではないか」と盛り上がったところ。(話はラーメンの上のナルトの渦巻きにまで及びました) 富士講が富士塚をつくったのはあくまでも信仰のためですが、結果的に富士山の「地の気」を呼び寄せた効果はあったと思います。 気功の先生によると、地の気は「西から東の方向に放出される」そうです。おそらく天海はそこを読み取り、家康が富士山の気を引き入れる江戸改造計画に出たのでしょう。 富士山のパワーは今でも東京に注いでいます。家康に感謝すべきかもしれません。 ↑荒俣 宏著「異都発掘」より転載 さて、荒俣氏が熱弁をふるっていた「富士塚風水説」はさておき、少なくとも新宿の成子富士は、風水的に見ても重要な位置にあります。(荒俣さんが富士塚を語る時に成子富士を選ぶのはその理由です) 「仙掌格」とは、玉を抱く手の形のような吉相の地形のこと。江戸城は、この仙掌格といい、渦巻き状のお壕といい、繁栄する条件をそなえていたことになります。 面白いですね〜♪
昭和5年、乃村工藝社が「両国国技館に人工富士山を作り、観客を登頂させました」が、それに遡ること2年、昭和3年には講談社が「富士山大展覧会」を開催していました。場所は大阪。
↑これはその時のポスターです。右上には、富士山頂上の奥宮でいただける御朱印が捺されていますね。後援は文部省や山梨県、静岡県など。 「大阪で富士登山が出来る」と、うたっていますが、高島屋での催しですから、本当に登れる人工富士山がつくられたのかどうか。もしかしたら、登れるというのはシャレだったのかもしれません。「富士百選」として数々の富士山図が出品されたようですので。 このポスターは、先月7日まで文京区の講談社 野間記念館の「富士を仰ぐ。 重要文化財『古谿荘』竣工100年記念 近代日本画」の中で展示されていました。 ふたたび、乃村工藝社に戻ります。 一番記憶に新しいものは昨年の実物大ガンダムですが、もちろん昔から多岐にわたり制作していますね。 私にとって印象深いものは、竹富島ビジターセンター 竹富島ゆがふ館です。 八重山の竹富島にこの施設ができた時は驚きました。映像やパネル、ボックス、音響をふんだんに取り入れ、そのセンスとバランスのよさに一流の仕事を感じました。 ちなみに、ゆがふ館内休憩コーナー付近に、私が創ったオブジェも置かれています(まだあるかは不明ですが)。 富士塚のオブジェを創るように、この島の聖地である御嶽(うたき)を箱詰めにしたものです。(写真コラージュとミニ鳥居) 種子取祭の奉納芸能が行われる「世持(ゆむち)御嶽」は、広い空間があります。神様のいるところは正面奥ですが、向かって右側には弥勒奉安殿があり、その奥にはクスクムリと呼ばれる築山(火番盛)があります。 聖地のミニチュア作品をつくるのは、私のライフワークでもあります。 この島には、小さなトモダチが住んでいます。彼が小学校に上がる前、粘土遊びでこんな富士塚(?)ができました〜♪ 【オマケ】脈絡なくもうひとつ。 八重山を訪れる前後に、那覇に寄ることもあります。 ある時、町を歩いていたら、ものすごい形相で自転車をこいでいるエンケンさんのポスターに目を奪われました。マジで沖縄までチャリこぎをしてやって来そうな気迫の1枚でした。 「幾つになっても甘かあネエ!」 そして、良質の映画やライブやイベントで定評があり、オープン当時から私もお気に入りの桜坂劇場に、エンケンさんがやって来るとわかりました。 確か、映画「ボブディランの頭の中」を観た後、桜坂社交街(新宿ゴールデン街のようなところと言えばよいでしょう)で飲んでいたら、エンケンさんを那覇に呼んだという主催者の方がいて、「滞在日数を延ばしてでもエンケンさんに会うべきよ〜」と言われました。結局かないませんでしたが。。。 桜坂劇場でのイベントは、エンケンが監督/主演/音楽を担当してつくったライブ映画「不滅の男〜エンケン対日本武道館〜」の上映のためでした。 なぜこの映画のことを書くかというと、サブタイトルは「エンケン対日本武道館」となっていますが、私にはエンケン対富士山に思えたからです。 武道館内に200台のアンプを積み上げて「富士山」を築き、エンケンは富士山六合目に住んでいるという設定です。このとてつもない構想、そしてそのエネルギーも彼ならではですが、やはり思うのは、表現者にとって富士山は、愛でながらも挑みたくなる「特別な存在」なのだということ。彼が積み上げたアンプの山(富士山と明確に名づけています)は彼にとってパワーの集積であり、と同時に、富士山という聖地の住人になって生き延びるという望みの表れでもあります。私から見れば、エンケンの富士塚ですね。 ちなみに、エンケンさんのライブは一度だけ観たことがあります。東京カルチャーカルチャーの階下、ZEPP TOKYOにて。
3月14日に催された【富士塚ナイト】のライブレポートがアップされましたので、
errieさんありがと♪ その人にしかできない紹介のしかたや、コラボでこそ知る楽しみや発見は、いくらでもあります。信仰が造った富士塚ではありますが、ちゃんと本質が伝われば、いくらいじっても構わないと私は思います。むしろ、日常に豊かな側面を見つけることができるというもの。 だって人間は知識欲のかたまり。発見や実験、それにロマンが大好物なのですから。 ↑富士塚ってナニ?と説明するより前に、いきなり馴染みの風景を使ってみたり、よくあるタイプはこんなですとイラスト出したり。まあこのへんはイントロ。(富士塚のことはこのブログでいくらでも紹介していますから)富士塚100景もスルーしましょう。 ↑大山さんがプレゼンしたのは、路上見立て富士。これが結構ハマる。富士塚病を発症した彼の見立てはハンパじゃない(笑)。会場の盛り上がりを見て、潜伏期の方々の多さを認識した次第です。 さて、なぜガンダムが出ているかというとこれを作った会社によります。(あとでね) ↑イベントでは、ざっくりと有坂レポ/大山レポに分かれていたのですが、ふたりの共通した1点がコレ。左は私紹介の「俳優出世富士登山すごろく」、右は大山さん紹介の「富士縦覧場」で、双方とも「明治20年、浅草に造られたハリボテ富士」の木版画です。 もちろん浅草の人工富士山は富士塚ではないのですが、富士塚が流行した背景には、人間のこうしたミニチュア好き(まして体現可能ならなおよし)があってこそ、というお話です。 以下、イベントの補足として。 (大山さんからもらった資料プラス私の調べモロモロ) ↑上が浅草のハリボテ富士の広告。 下は明治20年(1887)11月6日付の読売新聞の記事です。 発案したのは香具師(やし)、請け負ったのは人形師ですが、信仰のなかった庶民でも心踊らせたのは明らか。 ↑ハリボテ富士はなにも東京だけではありませんでした。大阪にも出現した人工富士山「浪速富士」は、左が実物の写真で右が当時のチラシです。浅草ハリボテ富士と同年、明治20年に大阪の生国魂(いくたま)神社にできたんです。こちらもつくったのは香具師でした。 浅草の富士山の構造が、丸太組みにムシロを掛けそれに石灰を塗った(人が歩く通路のみ板張り)という、チャチなものだったから、おそらく大阪もそんなものでしょう(にしては、浅草のは2年もったのは驚き!私の初代メタル富士は3週間目にサビてましたもん。2代目は大丈夫ですが♪) ↑そして、なんと京都にそびえた人工富士山は大正15年築。 「優良国産博覧会」と文字の入った絵葉書です。富士山の中腹に人の乗ったゴンドラが見えますね。 ちなみに(時代は遡りますが)明治27年には、広島にも人工富士山が建てられたそうです!人が登るものではなく、布を縫い合わせた観賞用とのこと。香具師が作った見世物富士でなく、装飾屋が手がけた最初のものらしいです。 おお。やっとここまで来た。香具師でなく装飾屋のハナシ。 香具師が、興行用に丸太を組んで作るのはイメージしやすい。舞台だって見世物小屋だってあるでしょう。でも宣伝業/装飾業が、この分野に参入したというのが、先のガンダムにつながるのです。今日のタイトル内の「ランカイ屋」とは、博覧会の建造物等で活躍した装飾業界の企業の通称です。 イベント用に、大正12年、装飾業界の広目屋が品川に日本アルプスを作り、昭和5年には乃村工藝社が両国国技館に「人工富士山を作り、観客を登頂させた」そうです。 この、乃村工藝社の歴史がお台場ガンダムの礎ではなかったか、裏返せば、お台場ガンダムは現代の富士塚とも言えなくもないわけで。。。と理屈をこねなくても、その面白さは時代や信仰心に関係なく、普遍的なもの。 私はそれを強調したい。だって、富士塚を造ったのは信仰ある人達だったけど、楽しんだ庶民の中には幼い子供もいれば、観光客もいた。「信仰心の底力」に「遊興欲」がプラスされていたと思うのです。 もひとつ。富士塚は昭和10年くらいまで造り続けられていました。それを考えると、近代になって富士塚を造った講の人が、浅草のハリボテ富士や、国技館の人工富士山を登っていた可能性は充分あります。もし、築造にあたり、何らかのヒントをもらっていたとしたら??? ちょっと楽しい推理ですね♪ つづく。。。
こちらも友人からのメールで知りました。31日の読売新聞の記事。
修験者は古くから登っていましたが、庶民の登山の歴史はあまり裏づけがなかったようです。江戸時代の富士講は知られていますが、それ以前の中世にすでに登っていたと思える古銭が出土したらしい。発掘されたところは、2合目の冨士御室(おむろ)浅間神社。でも、渡来銭ってどんなもの? ちなみに、江戸時代御室浅間は女人結界の場で、当時女性もここまでは登って来られました。でも林の中で眺めがイマイチだったため、実際は夜ここで籠り、翌朝これより1km上(女人天上という場所があり)を目指して御来光を拝んだそうです。 御室浅間は、富士塚にもよく再現されています。 ここも行ってみたいな〜。
富士塚ナイトでは言いそびれましたが、私が独断で「イイと思う富士塚」は、
1 登りがいのあるもの(登山道が充実している。必然的に大型) 2 1とは対極で、極端に小さく、ムチャな造りでもコンセプトのあるもの 3 楽しいアイテムが満載のもの(さる・かめ・てんぐ・あと胎内) 4 清々しい感じのもの(清掃されている。いい「気」を発している) です。1〜3は形状的に。4は聖地としての側面。最近は、塚の古さや歴史はあまり重視しないようになりました。歴史も大事でしょうが、塚の魅力は多角的な尺度を持ってこそ。現存するものは、少なからず工夫されているものです。セメントで補強しようが、改築で構造が変わろうが、残っているのは愛あればこそ。 ある先達が、「(祖父の代に)移築されて御胎内の位置が逆になっちゃった」と、残念そうに言っていたそうですが、それを聞いて、私はとてもお気の毒だと思いました。過去の富士講研究者が、あまりにも移築当時のことを嘆いたために、植えつけられた潜在的な罪悪感ゆえの言葉だからです。 現・先達には記憶のないことだし、先代や先々代にしても、学者が怒り狂うほどの心情だったかどうかはわかりません。多少形が変わっても、富士山に変わりはなかったのでは、と思うこの頃であります。 前置きが長くなりましたが、小島富士は、2と4の条件を備えていました。 塚の上には、よくある古めの祠がふたつ。奥宮と小御嶽(?)ですが、 足元には、それぞれの祠に向かって手を合わせるためのステップがつけられており、その手前には角形の石がその位置を導く役割をしていました。 このシンプルな配置がさりげなく、無理なく祠に接近できます。意外とこれには感動しました〜。ふと、歌舞伎町の稲荷鬼王神社にある西大久保富士を思い出しました。あれは、分断された苦肉の策がユニークに好転した例ですが、あの塚にもふたつのステップがつけられていました。 というわけで、ひとつでも段があることによって登拝を意味するのだと、足をかけてみてわかりました。(私のメタル富士にも1段〜3段つけてマス♪) もうひとつの特徴は、ボク石のつけ方。 祠のまわりを重点的に、あちこちに立たせてありました。江戸川区の富士塚に多い工夫です。イイです♪ とにかくツルンとしていない。2002年に再築された深川八幡富士とは全然違う。 補足は、ところどころにつけられた丸石たち。 まるでミニ力石のようですが、長寸でも30cmくらいに小さい。山肌に変化があります。それにしても、岩のつなぎのセメントが見えない。どうやって接着したのでしょうか。。。 覗き込んでいたら、背後に人の気配。 イベントで話題になった「メンドくさいおじさん」でした。 富士塚マニアに遭遇するのは嬉しいことですが、たまにウンチクおじさんにつかまります。 「これはね、富士塚っていうんだよ」 「え?知ってるの?えらいね」 「へ〜好きなの?いくつ行ったの?」 「100?……ボクと同じくらいかな」 「○○神社にね。。。」 (自慢が始まるという)展開は慣れていますが、この時、雲がかかり始めていたので、撮影のタイミングばかり考えていました。思わず、 「ごめんなさい。明るいうちに写真撮らなくちゃ」 と逃げました(富士塚の数を張り合うつもりのない私)。 でも、時すでに遅し。わ〜ん。 暗いです! 神社がどれだけ高架道路や鉄橋に近いか、撮りたかったのでした。
では、八幡神社へとお参りします。小さな神社ですが、とても手入れが行き届いていて清涼感があります。この第一印象は大事。富士塚がどう扱われているかにも関わってきますから。
富士塚は、社殿参拝後、右側から奥へまわり込みます。 小さな鳥居をくぐると、稲荷神社の左に富士塚があります。この画面でも見えていますね。 これが「小島富士」。こんな名前の富士塚はたぶんどこのリストにもないと思いますが、古い町名を使っての命名にならうとすれば、この一帯はかつて小島町(現・西葛西)でしたから小島富士と呼ぶことにします。 それにしても小さい? 拍子抜けでしょうか? まして、本殿の真裏に接近しているので、 私の小さなカメラでは、頑張って引いてもこれくらい。 塚の位置関係はこんなです。 富士塚は、隣接の稲荷神社、八幡神社本殿と仲良く西南を向いています。富士山の方角です。 あ、ウチワサボテンが。 富士塚の横の小さな庭の住人でした。なんでもありのスペースには、メチャ明るい大黒様や、プチ地蔵様、そしてサンゴまで。そう言えば、手水舎にシャコ貝の貝殻が何気なく置いてあるのを見て、ここの神職の方(または管理する方)は、南の土地が好きなのだろうと思っていました(笑)。「やっぱりね〜♪」と思いつつ、置かれたひとつひとつに心がこもっているのを感じました。 では、小さな小島富士に寄ってみます。 実は工夫が満載、パワー漂う素敵な塚だったのです。 つづく。。。 |
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プロフィール
HN:
芙蓉庵 (Yoko Arisaka)
性別:
女性
自己紹介:
▼▼▼【富士塚】とは▼▼▼
………………………………… 富士山に登りたくても登れな い人たちの為に、江戸時代に 関東各地に造られた「人造富 士山」のこと▲です。富士山 を信仰する▲▲▲富士講によ るもので▲▲▲▲▲したが、 地元に▲▲▲▲▲▲▲ミニチ ュア▲▲▲▲▲▲▲▲▲の富 士山が出来たことで、多くの 人が登山でき、大流行しまし た。民衆のパワーですね♪♪ 富士山の溶岩をのせ、一合目 から頂上まで登れるようにな っています。意外なところに ひっそりたたずんでますよ。 ………………………………… ▼▼▼【芙蓉庵】とは▼▼▼ ………………………………… 美しい作品も好きだけど、コ ンセプトありきで表現するこ とに喜びを感じるビジュツ家。 表現形態はこだわりません。 現在、富士塚のコンセプトに インスパイアされ、色々な媒 体で表現。著書の【ご近所富 士山の謎】【富士塚ゆる散歩】 も、私にとっては作品です。 なぜ富士塚か……それは、海 外生活での体験から。詳しく は本のあとがきに記してあり ます。 ★★★★★★★★★★★★★ お問い合わせ、ご連絡は↓ y♡k♡◆ris◆k◆.◆rtist★gm◆il.c♡m (♡をoに◆をaに★を@に変えて 入力して下さい) ★★★★★★★★★★★★★ 掲載の写真・イラスト・文章等の 無断使用・転載は御遠慮下さい ★★★★★★★★★★★★★
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