▲「富士塚」だけで日記が書けます♪▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
昔は畑が遠くまで続いていたであろう武蔵野。その面影が残る中、バス通りから入った細い鋪装道を行くと、ひときわ背の高い木立があります。富士塚の場所を確かめるため、路上で遊ぶ少年たちに聞きます。「このへんに富士山てある?」 するとその木立を指差し「あそこだよ」と即答されました。 その一角に立つと、道路に面して大きな鳥居。その向こうの富士山が目に飛び込んで来ます。たっぷりと大きな姿です。そしてなめらかな形。思わず「土まんじゅう」という言葉が頭をよぎりました。岩山でないからです。 ここに社殿はありません。この富士山そのものが浅間神社なのでしょう。正面につけられた電光状の登山道が丸太で留められていて、公園の一隅のようでもあります。じっくり石碑を見てからと思いつつ、やはりまず登りたくなる。健康的な印象の築山です。一合目から規則正しく登山道が折れ曲がります。直線的な道の雰囲気から、富士山6合目のあたりを思い出しました。少し行くと右手中腹には大きな小御嶽神社の石碑があります。大天狗、小天狗の文字も刻まれています。頂上近くに石祠がひとつ、頂上にも2つの祠、2つの碑があります。頂上は平坦で広く、10人以上でも楽に立てそうです。来た道を見下ろしたり、木漏れ日をぼんやり見たり、天に伸びる木々を仰いだりと、すぐ下りるのはもったいないような、実に気持ちいい空間です。 祠は他に、鳥居を背にして左斜面に2つ。石碑はあまり多くはありませんが、大振りのものや陰刻が見事なものが下のほうに見ることができます。左下には「富士山太々講社」の大きな碑があり、登山口両側には丸吉講の碑。丸吉講の碑には猿が手を合わせて拝む姿が対になって彫られています。猿の碑の土台には、この塚で唯一ボク石が使われています。小さいものでは、1合目あたりに小室浅間、鳥居のそばに丸嘉講の碑があります。 現在も続く「丸嘉講田無組中里講」の方達がこの富士山を守っています。8月26日には富士吉田の火祭りに行くそうです。そして9月1日、その再現とも言える火祭りがこの中里富士で行なわれます。清瀬市指定無形民俗文化財にも指定されて有名な「火の花祭り」です。登山道には丁寧に点火されたろうそくがゆらめき、富士塚前の大きな麦藁の松明からは、立ちのぼる炎が夜空を焼きます。 東京都指定有形民俗文化財、清瀬市指定有形文化財の指定をうけるこの中里富士はかなり古く、江戸時代のものだということです。個性ある富士山は嬉しいです。 縁日はわくわくします。神社の本殿前では盆踊りとかやってるようです。 富士山の登山口も妖しげになってまいりました。 さすがにここも注目されてた。 どの人もお参りは丁寧です。 異郷へと吸い込まれていくこの快感。ええ誰もがそのようです。 頂上では若干列ができていました。(本物の富士山みたい?) 上機嫌でノリノリの氏子さんが「ここも富士山なんだよ」「ですってね」 「はい。登山記念だよ。この笹も富士山の……」「こらこら」「とにかくお山に登って来たから、健康をお祈りして……」「はい、ありがとうございます。ところで」 「あれは何ですか?」「ほら、お山に登ると人間大声を出したくなるだろ?」「へ?」「まあ、大きな音を出したくなるのも同じさー」 「これは何ですか?」「ああ、富士山が火山だってことだよ」「お焚き上げじゃないんですね?」「う〜ん、やっぱ火山かな」「ゴミを燃やしてるんでもないんですね?」「違うよハハハ。あ、どうもどうも!あの人、神主さんだよ」 差し入れを持って登って来たのは白袴の神主さんでした。一応儀式的なことを聞いたら、「特にやってませんね。講の方ですか?来ませんよ〜」でした。 頂上は町内の人たちの社交場になってます。「あれ〜○○ちゃん?」「おお、□□じゃねえか」「痩せた?」「逆だよ。太っちゃってさ〜」とか「あんた△△とこの○○ちゃんかよ。大きくなったね〜」なんて声が飛び交って。夏祭りはいいですね。 お山はフシギな時間が流れておりました。 空の色もよくなってきました。 祭りは始まったばかり。もっと人出を待つかどうか、ちょっと悩んだけど……でもやっぱりさよなら。 空が一番きれいな時刻に帰ると、記憶が鮮やかだから。
夕暮れになるまでちょっとぶらぶら。
早稲田界隈ですから古本屋が多い。つい古本と古着を買い、すごい荷物のまま歩き回ってしまいました。買った本は、以前持っていた藤原新也著「東京漂流」を再び。ちょっと自分に喝を入れるため(笑)。¥100の新品でしたから。。。 古着はいろいろ買ったけど、例えば浴衣柄のワンピース。\1000也。(花火大会用です) 水稲荷神社へ戻ると、人が増えていた。昼間しまっていたテンポラリー神殿ともうひとつの資料コーナーが設置されていました。 最後の写真は、古い本でお見かけする丸藤宮元講の故井田浅行藤開師ですね。ありとあらゆるものが並んでいました。講の方は不在ですけどね。 さて、提灯に灯もともりました。もう一回登ってみようかな〜。 神社の外側からはこんなです。富士山の頂上から煙が立ちのぼり、灯りも見えてきました。 暗くなって初めてわかる、富士の存在。 鉄の門が半分だけ開いている。人の気配はない。「登っていいですか〜」とつぶやきながら足を踏み入れると、目の前にいきなり登山口が待ち受けていました。その左には浅間神社。狛犬つき。 さらにその左に古い手水鉢。水はない。 登山道は建材で誘導がつけられてます。夜になったら目立たなくなるのでしょう。安全だけ守られて。ところどころに青竹が地中に刺さっている。中を覗くとハロゲンライトが上を向いてる。ライトアップ用でしょうか。ニクい演出ですね〜。 道を左に曲ると、次のカーブのところに「小御嶽」がありました。(私の大好きな日と月♪)賽銭箱が置いてないのはまだ早い時間だから。背後のよしずあしらいがなかなかイイです。 これ、水盤だった時代もあったろう……なんて考えながらゆっくり登ります。 石段は高からず低からず、長からず短からずで歩きやすい。これなら子供たちも安全でしょうね。 もう頂上が見えてきました。鳥居かな?(後でわかります) 次の左折地点の手前ですごいものを見つけました!この巨岩、歴史的なものは何ひとつ刻まれていません。でも、ひと目でピ〜ン!「鉄砲洲富士」にあったものと同じだ!双方とも烏帽子岩らしき岩、まるで兄弟岩です。石好きな私としては記憶に残る同素材でもありました。実は文字をあまり気にしない私(文字が全て正しいとも限りませんし。最近勉強になった件もありで、まあそのへんは研究家にお任せします)ですが、造形作家の視点で気づくこともありまして。。。(自分で作る富士塚オブジェには文字なしの烏帽子石を使うのが好みです。材料棚にはビーチで採集した烏帽子石が山のようにあります。そんなことから気づいたんですけどね。笑) 実際、指標だけで名所を表わす場合と、形だけで表わす場合があるようで。私はやはり後者のミニマルな表現が好きですね〜。それはさておき兄弟岩たち、やはり丸藤講という同じ講社によって作られた塚だったのです。高田富士を造った高田藤四郎さんの弟子が、鉄砲洲丸藤講の初代先達なんですね〜。 先を行きます。夜編もアップするので手短に。これは頂上のお宮と水盤でした。 頂上の石祠の横から下山すると(構造的には他にも下山道あり)、 着地点脇には…… 「御胎内」。 立派です。 傍らには大正2年に建てられた「講祖日行藤四郎翁開發霊蹟・富士山北口胎内窟模造修築記念」というメチャでかい石碑がありました。これはその部分。 天狗像等の石像もあったけど、立ち入り禁止の中でした。枯れ葉の中に埋もれていて侘びしかった。
行って来ました。はじめての高田富士。
先人の富士塚研究者による現存する富士塚リストの中には「高田富士」という名前は出てきません。最古の富士塚と言われて有名な高田富士は早稲田大学の敷地拡張のために取り壊されたとして、過去の扱いであります。土地をめぐり、ちょっとややこしいやりとりがあったことは割愛しますが、移転先の水稲荷神社がここ一帯の地名戸塚にあることから戸塚(富塚)富士、富塚古墳跡も由来してか「富塚富士」と通常は言われています。でも、ふつう富士塚移築が頻繁にあっても塚の名前は変わらないこと、水稲荷神社側が高田富士と呼んでお山開きをやっていること、神社の境内に富塚という古墳(これも移築)があってややこしいこと、などの理由から私は高田富士と呼んでしまおうと思います。 もちろん、移築した(昭和40年代に)この塚を指してコレが最古の…と神社が言い切るのはちょっと強引だと思うけど、元の塚にあった石碑とかは全部運んだのだし、もうひとつの塚、古墳の富塚と混同されてしまうことも考えると、「(移築した)高田富士」でいいよな〜と。実際、高田富士の後に富塚をチェックしていたら「これが富士塚ですかー?」と聞かれました。早稲田大学の学生さんでした。 富士塚登山口の手前に設置されていた資料コーナーには確かにコソッと「移築」の文字が。これに気づく人はあまりいないでしょうが。(下の小さな写真群はよその富士塚) まあ、これが最初の高田富士の姿(昭和30年代)だったということで。のどかな風景ですね〜。(私も大泉富士ではこうして遊んでました。昭和50年代ですけど。笑) 少なくとも神社は盛り上げようと頑張っています。この入り口はぐっときます。見せ物小屋っぽくて(笑)。 つづく。。。
おまけですが、ちょっと嬉しいことがありました。
実は、お山開きに出かける前に、品川丸嘉講社の方たちが富士吉田の御師「菊谷坊」と縁があることを知り、当日、あるものを持って行きました。 10年前に富士吉田の火祭り(富士山のお山じまい)に行った時に出会った強力さんの写真です。もしかしたら御存知かなと思って。 上が私のアルバム、手前は品川講社の方たちが一昨年行かれた時のアルバムです。 同じ強力さんが写っていました! 先達が言いました。「ミツジだよ!スズキミツジ。まだ生きてるよ〜♪」 それを聞いて嬉しかった〜。ちなみにミツジさんの法被にある「江戸川富士講」というのは、丸星講だと思います。
お山開きの儀式はとどこおりなく終わりました。講の方々は素足を丁寧に拭いて、社殿内を片付けにかかります。お猿さんに「また来年ね〜」と語りかけながら。
浅間神社の本殿に祀られていた「御神体」を拝ませていただきました。 儀礼の際には暗くて見えなかったけれど、こんなお姿でした。手前の御神鏡に外の品川富士が映っているのが見えますか? 鏡をよけたところ、正面からはこのとおり。 「木製ですね?」「さわっていいですよ」 一瞬触れさせていただいただけですが、すぐわかりました。 たぶんですが、桜とかの木の土台に、層の厚い胡粉地で滑らかに盛り上げ、着彩したものと思われます。その優美なこと!右側中腹に小さな段があり。小御嶽か宝永山もしれません。高さは30cm足らず。幅40cm以上。 「頂上には火口(窪み)があるんですよ」「ひぇ〜そうなんですか♪」 その中に御幣を立ててあります。裏面には「蓬莱山」と書かれているとか。蓬莱山、つまり富士山のことですね。 |
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プロフィール
HN:
芙蓉庵 (Yoko Arisaka)
性別:
女性
自己紹介:
▼▼▼【富士塚】とは▼▼▼
………………………………… 富士山に登りたくても登れな い人たちの為に、江戸時代に 関東各地に造られた「人造富 士山」のこと▲です。富士山 を信仰する▲▲▲富士講によ るもので▲▲▲▲▲したが、 地元に▲▲▲▲▲▲▲ミニチ ュア▲▲▲▲▲▲▲▲▲の富 士山が出来たことで、多くの 人が登山でき、大流行しまし た。民衆のパワーですね♪♪ 富士山の溶岩をのせ、一合目 から頂上まで登れるようにな っています。意外なところに ひっそりたたずんでますよ。 ………………………………… ▼▼▼【芙蓉庵】とは▼▼▼ ………………………………… 美しい作品も好きだけど、コ ンセプトありきで表現するこ とに喜びを感じるビジュツ家。 表現形態はこだわりません。 現在、富士塚のコンセプトに インスパイアされ、色々な媒 体で表現。著書の【ご近所富 士山の謎】【富士塚ゆる散歩】 も、私にとっては作品です。 なぜ富士塚か……それは、海 外生活での体験から。詳しく は本のあとがきに記してあり ます。 ★★★★★★★★★★★★★ お問い合わせ、ご連絡は↓ y♡k♡◆ris◆k◆.◆rtist★gm◆il.c♡m (♡をoに◆をaに★を@に変えて 入力して下さい) ★★★★★★★★★★★★★ 掲載の写真・イラスト・文章等の 無断使用・転載は御遠慮下さい ★★★★★★★★★★★★★
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