▲「富士塚」だけで日記が書けます♪▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
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音羽富士にて打ち合わせ。いや、ある番組のディレクターさんに体験登拝(笑)をしてもらいました。



これは頂上から見下ろした図。私たちは正面の登山道から上がってきました。すぐ目の前には烏帽子岩。富士塚の下で、若いお坊さんたちがキャッチボールしています。楽しそうです。

音羽富士は文京区の護国寺の中にあります。お寺の中に富士塚が残っているのは東京では珍しいですが、江戸名所図会には描かれています。



現在の位置は違いますが。。。

護国寺には、新田次郎の小説「芙蓉の人」でもおなじみ、野中 到と妻千代子が眠っています。



明治時代、野中 到は、高地での気象観測の必要性を説き(例えば、ペルーのエル・ミスティ=ミスティ山のように海外ではすでにあるのに日本でなぜ行なわれていないのかと)、富士山頂の剣ケ峰に私財を投じて日本最初の富士気象観測所を建設。そこで妻千代子と共に、冬期気象観測をしました。明治中頃のことです。これが「富士山頂観測所」のきっかけとなり、のちの富士山測候所にもつながったわけですね。小説を読むと、山頂での壮絶な情景が目に浮かび、胸にこみ上げるものがあります。

ちなみに、エル・ミスティとは、ペルーの日系移民の方たちから「ペルー富士」と呼び親しまれている山ですが、この頃まだペルーへの移民は始まっていません。

とにかく、護国寺は富士塚があるだけでなく、野中夫妻を通して富士山と御縁があります。

再び頂上。お宮の手前に「御頂上 大石」の石碑があります。植木職人からの奉納です。



どっしりとしたその石は、何となく山の形っぽい。また、少し下ったところにある、



これを見た時、「あれ?どこかで見たカタチだ♪」と思いました。

←浅久保富士の碑

「ふじの山 夏雪の水をそろの木に 金名水も開く」という歌が刻まれたヤマキチ講のものですが、音羽富士のその碑は何が彫ってあったのでしょう。斜面から落ちそうだったので、チェックしませんでしたが。

それにしても、ほかにもどこかで見た、このL字型の石碑。(近いのは目黒新富士にあります)
富士山を連想させるような三角の石が使われることはよくありますが、これはちょっとユニークですね。横長だし。山型の下に文字のためのスペースがついているし。

確かまだまだありました。う〜ん。どこだったでしょうか。気になります。
富士塚は「名所江戸百景」などの浮世絵や、「江戸名所図会」「江戸切絵図」「絵本江戸土産」の中に登場しますが、「江戸切絵図」の中で富士塚を見つけた時の喜びは格別ですね。 男性でもつい「カワイイ♪」ともらすほど。

それにもうひとつの楽しみ、江戸ではないですが、富士塚が描かれているものに「鳥瞰図」があったんです!

下の記事の

最初の絵

を引いてみます。。。
「サムネイルが(画像が大きすぎて)出ません」と出るので(笑)

★クリックしてね★

こんな場所。

ふたつめの絵

を引いてみると。。。

★クリックしてね★

こんな場所。

文字はつぶれますが、全体図は



こうなっています。「千葉県浦安町鳥瞰」の元町。
昭和6年当時の、海の方を向いた眺めです。東西線も走っておらず、田畑が広く続いています。もちろん、海もすぐそこ。新浦安なんてナシ。
赤い囲みの部分、右側は「堀江富士」の描かれた清瀧神社。左が「猫実富士」が確認できる豊受神社(表記は豊受天神宮)です。

この鳥瞰図は、大正から昭和にかけて活躍した鳥瞰図絵師、松井天山(本名 松井哲太郎)によって作成されました。天山は、昭和初期、千葉県各地の鳥瞰図を残しています。市川、津田沼、船橋、八幡町、検見川などなど。浦安もそのひとつです。鳥瞰図(復刻)は高価で購入可能ですが、JR船橋駅には、南口の壁に船橋の様子を描いた鳥瞰図が銅板のレリーフになって設置されています。

以前から浦安の鳥瞰図は知っていましたが、小さなサイズしか見たことがなかったので、全体の把握しかしていませんでした。ところが先日、これに富士塚が描かれているのを発見し、小躍りしました♪
そうだ!地元の方に見せてみよう!と大きく引き伸ばしA2サイズに作り直し、いつもお世話になっている方にプレゼントしました。

「え〜?こんなのがあったの♪ 面白いねぇ」
「どれどれ。昭和6年の? いやぁ自分が生まれた年だよ(笑)」
「てんぐ山(猫実富士)が絵になってるね! あ、こっち(堀江富士)もだ!」
「この銭湯の位置はおかしいね。 でも確か区画整理でこのへんは移動されたんだ」
「今は広い道路ができたけど、昔はこっちに小学校があって中心地だった」
「ああ、この川は塞がれて今は暗渠になってる」
「山本周五郎の下宿してた船宿はこれだよ」
「こっちが東京へ渡る船の船着き場。橋はまだできてないからね」
「日本橋のほうへ荷を運んだ蒸気船が出るのはこのへん」
「や、○○商店はこの頃からあったんだ!!!○○医院もだ!!!」
「子供の頃に遊んだのはこのへんかな。そのあと、キティ台風で水びたしだ」
「ほら、弁財天は海のほう。田んぼの真ん中だね♪ このあたりは低い土地だから、昔はしょっちゅう水をかぶった。だから、弁天様の松の木の根っこから水が越してこないように願かけさ。『根を越さねぇ』→『根越さね』。それが『猫実』に転じたんだね♪」

ルーペを覗き込みながら、あっと言う間に楽しい時間が過ぎました。
そんなご年配のお連れ合いと出かけたのは。。。

つづく。
最近こんなものにもぐっときています♪





さあ、これらはどこでしょうか?

ヒント:ふたつとも鳥瞰図の(ほんの)部分です。

つづく。

最近、なぜか複数から「村山古道」へのアプローチがあり、気になっています。

村山口登山道は、約100年の眠りから目覚めたとして、知られているものです。
平安時代から修験者たちによって使われていた「最古の富士登山道」ですが、明治39年(1906)に大宮新道、つまり大宮(=富士宮)から現在の新6合目に通じる近道が開通したために衰退し、ほぼ100年間、荒廃したままでした。2年の歳月をかけて、2004年に復活したこの道は、通称「村山古道」と呼ばれ注目を集めています。

「村山古道」の復活は、「富士山クラブ」のHPの中の【村山古道復活記念 富士山完登プロジェクト2005 】に詳細が出ています。
地形図はこんな

海外メディアにも取りあげられ、2004年10月19日付のHerald Tribuneには、活動内容だけでなく、外国人として初めて富士登山したオールコックもここから登ったと書かれています。



その、村山古道を復元したプロジェクトのリーダー、畠堀操八さんの著書はとても面白いです。復元のプロセスも興味深いですが、もともと修験のために使われた村山口登山道が、深い歴史を持ちながらもなぜ衰退したのか。などなど詳しく書かれています。



特に面白かったのは、江戸時代に描かれたこれらの絵図。(強調のための色つけは私)



表口(静岡県側)からの登山図ですが、右側は吉原宿(静岡県富士市吉原)から大宮道をアピールした図。大宮(富士宮)つまり富士山本宮浅間大社へと誘うルートです。左は村山道のアピールで、村山浅間神社へのルート。それぞれ、強調したい道の幅や神社の大きさが違いますね〜。要するに、2つの神社の間で客の取り合いが静かにあったようなのです。政治的な背景はまた興味深い。

そんな苦労もあった表口の歴史は、中央線が開通し北口がにぎわうようになってから、また変わることになりました。先に書いたように、明治39年、富士宮側が「対北口」策として現在の新6合目に通じる近道を作り、登山者がそこに流れたというわけです。

さて、なぜ村山古道が気になっていたかというと、このルートにかかせない富士塚が田子の浦にあるからです。



この富士塚は、江戸や近隣の富士塚とは目的が全く違っています。登山者は山に入る前、海で水垢離(みそぎですね)をした後に石をひとつ積み上げるという儀式をした、それが富士塚として形づくられたということなのです。
上の画像は、「目で見る富士市の歴史」より明治時代の富士塚。



現在は、コンクリートで固められてこんな姿です。鈴川の富士塚と呼ばれています。

この富士塚の存在は知っていましたが、詳しく知ったのは最近です。2月に富士山クラブの方たちの宴に参加させていただいた折、この富士塚が昔の富士登山の起点であると教えていただきました。その時「一緒に村山古道を登りましょうよ」と言われ、いつか私も参加したいな〜と思っていました。

実現するのはいつになるかわかりませんが、最近またこの古道が気になったのは、ある方から「もしかしたらあなたは、富士氏と関わりのあった過去世を持っているかもしれませんね」なんて言われたことです。富士氏は富士亦八郎のことがちょっと出てます。全然無関係かもしれないし、調べるのには時間がかかりますが、いずれにしろ、知るということは面白いことです。子供の頃、静岡に住んだ時期があったとはいえ、こちら側からのことはほとんど知らないし、学べる楽しみが増えたと思えばとても有り難いことです♪
山のマークについてふれたので、ついでに♪
富士講の紋「講紋」、正確には「講印」をダダダダッと並べるとこんなです。



取材の際に北区からいただいた「田端冨士三峰講調査報告書」の中の「紙本着色冨士講惣印図」通称「百八講紋(印)曼荼羅」の画像です。

江戸時代には「八百八講」もあったと(誇張して)言われる富士講の多さですが、これには108種類が載っています。(実際はもうちょっと多かったようですが、関東全部だとどのくらいなんでしょう!)

講印は、富士登山の時の笠にもついていたので「笠印」とも言われますね。
その他、マネキと呼ばれる講旗(→こんなの)にも、また、富士塚にある講碑にもついていますから、印象に残るロゴであります。(昔は、商家や旧家は屋号を持っていましたが、デザイン的にも類似していますね)

横須賀丸伊講の斎藤先達(バリバリ現役!)は、こんなふうにおっしゃってました。
「マネキは、つい名刺がわりに配っちゃうんだよ」
わ、私も欲しい♪
先日、色々な方たちと知り合いになれました♪ その中で、富士吉田の御師宅を紹介する活動をされていて、富士山にも富士山信仰にも詳しく、お話も楽しい素敵なK様からかわいいポストカードが届きました。嬉しかったので、アップします。



富士吉田では雪が降っているとのこと、現地ではこんな姿の富士山も拝めるかと、三好和義さんの「時の魁(富士吉田)」をバックにして撮ってみました。切手も富士山でした。ありがとうございました。そうそう、私の本も読んでくださったとのことで感謝いたします。

お会いしたのは、めぐろ歴史資料館のめぐろ・れきし講座にて。2部構成でとても濃い充実した内容でしたので、寝不足のアタマもすっきり(これは珍しい♪)。1部はまたゆっくり書きますが、2部はこちら。



神奈川県にある富士講、横須賀丸伊講社の先達の講義。45回も登山なさっている5代目です。これは、御三幅(ごさんぷく)の解説をされているところ。この前で手刀を斬った時、それが鮮やかだったので、受講者全員くぎ付けになりました。



御三幅は、富士講にとっての神様。富士山に登る時にはこの「御身抜(おみぬき)箱」に入れ、山頂で開いて息を吸わせるとのことです。



お焚き上げ(角行像の御開帳の時)の貴重なビデオも拝見しました。貴重すぎる画像はひかえますが、こうして富士山の形に焚いた火で吉凶を占ったりする場面、迫力ありますね。

そのほか、頭の宝冠(ほうかん)は7尺2寸の長さですが、「命づな」であるというご説明。2本つなぐと、ほぼ1反の長さになるので、何かあったらこれを解き、人をおぶったりひっぱったりするのに使えます。また、杖は、雨具としても使う菰(こも)と組み合わせて、担架にもなる。鈴は、他の講の方からも聞いていた「くまよけ」の呼び名が。実際富士山の麓では熊が出ていたのでしょうし、濃霧の中を行く時に使われる。などなど、たっぷりと興味深いお話が続きました。気さくで魅力的なお人で、とても楽しかったです。

それにしても、先達という方たちは存在感が大きい。オーラが違う。このオーラ分析(?)はいつかやってみたいと思ってます〜♪
土曜日に1膳、日曜日に1膳、ありがたくいただきました。
どちらも「富士山つながり」でした。


「三浦富士」を守る、横須賀丸伊講の斎藤先達からの長寿箸。
下の印は「丸伊講社」ですね。


NPO「富士山クラブ」が主催した「富士山の日フォーラム」に
参加した際にいただいた、港区立エコプラザからのエコ割箸。
あきる野の「みなと区民の森」で間伐材から生まれたヒノキ箸です。

くわしくはまた。。。

ところで、2月23日は「富士山の日」ですよ。
2年前の日記にも書きましたが、私は北斎の「琉球八景」が荒唐無稽で大好きです。


これは、現・那覇のバスターミナルあたり。

富士山の見えない土地に富士山を描いてしまうとは、なんと創造的かつ大胆な行為でしょう。北斎は、絵のうまさよりもこういう発想がイイ!(方向性はちょっと違うけど、これまた私の好きなイサム・ノグチの「火星から見られる彫刻=NASAが火星探知機を使って発見した『人面岩』より30年も前に構想していた作品=カタチがそっくりで有名」と同じくらい好きです)

でも、富士塚に想いをはせている人の中で、「琉球八景」を面白がる人がいないと思っていたのですが、今日受けた講義の中で、いきなり出てきて嬉しくなりました。


ちなみに左の「兀良哈(おらんかい)」というのは、中国の地名。

教鞭をとられていたのは、富士山の研究者として竹谷靱負の名で知られる、拓殖大学工学部の竹谷誠教授。定年退職のため、本日の講義が最終とのことでした。最近知り合った方からお誘いをいただいた私は、いそいそと受講に出かけた次第です。くわしい内容は省きますが、いや〜実に面白かった♪


上部の弓なり部分が日本です。

竹谷先生は理系の頭脳ではありますが、いろんな意味で、豊かな感性は研究にも大事なのだなと痛感したのでした。


講義の後のパーティで祝辞を述べられる岡田博先生。お会いできてよかったです。

オマケの画像デス。↓

何をしゃべったか、全く覚えていない私でした。


下の写真のところ、江戸時代もこうでした。

富士吉田の御師の描いたものを私が立体オブジェに模写したものです。

でも、最近の烏帽子岩霊場の写真を見たら。。。

ずいぶん変わっていて軽いショックを受けました。
烏帽子岩霊場はこんなです。7合5勺。8合目元祖室の隣です。
烏帽子岩神社の石段に腰掛けているのが私で、烏帽子岩は左側。

烏帽子岩が写ってない?あれ?写真の外だ!

これが寄り写真。引くことはできなかった。

烏帽子岩神社の社殿内を撮影。



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HN:
芙蓉庵 (Yoko Arisaka)
性別:
女性
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富士山に登りたくても登れな
い人たちの為に、江戸時代に
関東各地に造られた「人造富
士山」のこと▲です。富士山
を信仰する▲▲▲富士講によ
るもので▲▲▲▲▲したが、
地元に▲▲▲▲▲▲▲ミニチ
ュア▲▲▲▲▲▲▲▲▲の富
士山が出来たことで、多くの
人が登山でき、大流行しまし
た。民衆のパワーですね♪♪
富士山の溶岩をのせ、一合目
から頂上まで登れるようにな
っています。意外なところに
ひっそりたたずんでますよ。
…………………………………

▼▼▼【芙蓉庵】とは▼▼▼
…………………………………
美しい作品も好きだけど、コ
ンセプトありきで表現するこ
とに喜びを感じるビジュツ家。
表現形態はこだわりません。
現在、富士塚のコンセプトに
インスパイアされ、色々な媒
体で表現。著書の【ご近所富
士山の謎】【富士塚ゆる散歩】
も、私にとっては作品です。
なぜ富士塚か……それは、海
外生活での体験から。詳しく
は本のあとがきに記してあり
ます。

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