▲「富士塚」だけで日記が書けます♪▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
[19] [20] [21] [22] [23] [24] [25] [26] [27] [28] [29]
ここは埼玉県狭山市。
入間川によって形成された、河岸段丘の上に造られた富士塚です。
富士塚の様子は後にして、まず頂上から。。。




頂上に立てられた幟が、沈みゆく西日を受けていました。都心の富士塚では見ることがなくなりましたが、昔はこうして幟は大切なアイテムだったのです。横浜の富士塚では、今でもお山開きで幟が立ちますけど。



「安産ローソクさし上げます」



奥宮では、長老が蝋燭の灯っているガラスケースの中の蝋燭をチェックしていました。燭台の見事なこと。上のほうが富士山型なのわかりますか?

つづく。。。
「胎内くぐり」は、生まれ変わるという儀礼です。新しい生を受け、リスタートするってわけです。と同時に、女でも男でも出産する概念があります。面白いですね〜。

「父の胎内」があったり、「邇邇芸命 ニニギノミコト」が祀られていることも興味深い。(ニニギノミコトはコノハナの夫です)

狭い溶岩の隙間を産道に見立て、「産まれようとする意志」と「産もうとする尊厳」を味わう。この両義牲が胎内くぐりの特徴かと思います。人間は、常に何かを作り生み出しています。生きていく上で起こりうる、たくさんの困難をうまく回避できるよう、ここを通ることは全ての人に対して御利益となるのではないか。

木花咲耶姫が「火中出産」した伝説から発生した「安産の御利益」ですが、それを広義に解釈することが富士山信仰のよきところ。私はそんなふうに思っています。

北斎の『木花咲耶姫』



胎内は「無戸室浅間神社」でもあります。木花咲耶姫が、出産のために石室を閉ざして火を放ったことに由来します。安産祈願のお守りに売られていました。

かつては、胎内くぐりをする行者相手に、膝わらじや白いタスキを売る者がいたり、胎内くぐりを終えた行者に産(うぶ)湯と称して足を洗う水や、祝いの酒をふるまう人がいたそうです。

タスキは、後で妊婦の腹帯にもなるとして、安産土産になりました。また、洞窟内で使われて短くなった蝋燭もお守りになったそうです。こちらは、妊婦が産気づいた時に灯されるもので、残りの蝋燭が消えるまでにお産が容易にできる、という願かけです。

なんと、この蝋燭の安産御守、今でも伝統として頒布するところあり。



数日前、私もある富士塚のお祭りでいただいてまいりました。
それは、次の日記にて。
胎内めぐりの様子は、絵図にもいろいろ残されています。

以前、「空飛ぶ絵師 五雲亭貞秀」のことを書きました

「起し絵」である『富士山真景全図』の仕掛け部分、「土中胎内之図」は胎内めぐりの様子です。また、他にも3枚つづりの『富士山胎内巡之図』などを描いています。

『富士山胎内巡之図』

アバラの表現はすばらしい。まさに肋骨のようにデフォルメし、迫力を出しています。

これを見て、歌川国芳の「相馬の古内裏」を思い出すのは私だけでしょうか。
『相馬の古内裏』

『富士山胎内巡之図』は、アバラの他にも、浅間大菩薩を拝む空間や、洞窟の天井から滴り落ちる水を受ける様子も描かれています。また、蟻の巣のような細い空洞を這いつくばって進む行者たち。絵は誇張してありますが、胎内最大の難所。木々が交差して倒れてできた空間は複雑であります。

穴はただ狭いのではありません。岩肌は溶岩です。擦れると痛いのなんの。私はちょっと入っただけなのに、大事な服にカギザギを作ってしまいました〜。

行者たちが胎内に入る時には、



膝にもわらじをあてていました。

それは、この面白い絵にも描かれています。



仮名垣魯文の『滑稽富士詣』の挿絵。絵師は国芳の門下である歌川芳虎です。

「押すな押すなよ〜!てやんでぃ」

つづく。。。
高田藤四郎(日行青山)は、食行身禄の弟子のひとりでしたが、自分の師匠の残した書物の中にある「ふたつのこと」に着手しました。

ひとつは、身禄の遺言と言われる「富士山のうつし」を造ったこと。もうひとつは、天地創造主である「モトノチチハハの現われたところが胎内である」ということを受け、船津の胎内を探しあてたこと。です。

藤四郎の真意は、研究者たちも論じていて、藤四郎当人に聞いてみないとわからないことですが、このふたつの業績【富士塚築造と胎内発見】は事実です。その後の富士山信仰に大きな道筋をつけたからです。

富士塚は、身禄のために造った模造富士であり、その麓には自らが発見した胎内を再現した。これってすごい!(私から見れば、究極のコンセプチュアルアートだ!)

(結果的に)富士塚が富士講の広告塔となってウケまくり、胎内めぐりも修行のひとつとして定着したことは、とても江戸っぽい。(だから好きなんだな〜)

さて、胎内のコト。
火山である富士山の麓には、溶岩による洞窟が無数にあります。

以前レポした「人穴」も洞窟ですが、それは溶岩流の内部にガスがたまってできた空洞で、「溶岩洞穴」と言われるもの。だからポッカリ大きな洞窟になることもある。(風穴や氷穴もそうですね)

一方、溶岩流が木々を飲み込んだ後、焼失した木の形がそのまま穴となったものが「溶岩樹型」。これが、複雑な形やディテールを形成するので、まるでヒトの体の内部のように見えることがあります。体内のごとき生々しさが、天地創造主の生まれいづる「胎内」として富士山信仰の聖地になったのもうなづけます。

また、「胎内くぐり」はもともと修験道の概念で、生まれ変わりの意味もあるので、修験の影響も濃い富士山信仰には自然の流れだったでしょうね。

人穴は、角行が籠って修行した聖地。胎内は、ここをくぐり抜ければ生まれ変わることができるという修行の場。でもまあ双方とも、「死生観」を有する聖地として、共通の概念があるような気がします。





船津の胎内は、胎内神社の社殿内からすぐ入ることができます。これは入ってすぐのところにある「アバラ」。全く肋骨のような形状です。本数が多いけどね(笑)。

もちろん、中に入ってからずっとかがんで進みます。



こんな鉄分たっぷりのドロッとした箇所もあり。かなり内臓っぽい。このほか、中状突起があったりおへそがあったり。



しゃがんでも頭がつくくらい狭い上、水があって先に進めませんでしたが、ここは母の胎内。胎盤や乳房や女陰石まであり、一番奥にはコノハナ像がいます。



面白いのが、母の胎内に対して父の胎内(!?)ニニギノ命まで!

つづく。。。
高田富士を造った人は、高田藤四郎。高田村に住んでいたから高田さん。植木屋という稼業でしたが、先達で、行名は日行青山。(宝泉寺にお墓があります)



高田ふじまつりの資料コーナーには、木彫りの日行青山がとびっきりの笑顔で人々を見つめていました。普段は、丸藤講宮元講社の先達宅にあります。



さて、これと同じ日行青山の木像が、もうひとつあります。





山梨県南都留郡富士河口湖町船津にある「胎内神社」です。

つづく。。。
「高田ふじまつり」は、縁日の屋台が出てとても楽しい。でも店を開いてるのは、いわゆるテキヤの人達ではなく地元住民、つまり水稲荷神社の氏子たちです。背中に「冨士下」とプリントされたお揃いのTシャツを着ていました。以前から気になっていたので、私はその文字の意味を聞いてみました。

すると氏子のおひとりが、氷の入った簡易クーラーボックスの蓋にペンで地図を書き始めました。
「えっとね。。。移築される前の富士塚は、水稲荷と一緒にこういうふうに。。。」



私も旧高田富士が早稲田大学に隣接した水稲荷神社の境内にあったことを知っていますが、地元の方から当時のことを聞くのは初めてでした。

その人は、まわりの人にも声をかける。
「なあ、前のお富士さんて、こんな形だったよな?」
「そうそう。L字型だったわね。お参りするのはこっちから。。。」
「L字って???」

突然、ボールペンは発泡スチロールの上で滑って書けなくなってしまった。
「そうだ。昔のことはあすこに座っているKさんに聞くといいですよ。よく知ってます。89歳だもの♪」

長老のKさんにご挨拶して、お話をうかがいました。



Kさんは、話をしながらメモ帳の1枚にスラスラと書いてくれました。
「穴八幡の反対側、早稲田通りから直角に入るところが参道です」
「それはもしかして早稲田大学の西門ですか?」
「そうです。大学の中に入る細い道があったでしょう?今は駐輪場になってるけど、あれが昔の参道です」

うかつでした。そこらへんの昔の地図は何度も見ていたのに、水稲荷の参道のことなど気にとめなかったもの。西門も駐輪場も知っていて、ましてそこが「ちょっと異質な空間」だったことも感じていたのに、なるほどそこが参道だったとは。納得しながら、ちょっと感動。

「北側にカーサがあって、参道を行くと社務所と本殿。富士山はその裏です」
「ふむふむ」
「私たち『冨士下』の者は、こっちの坂道から神社に入ったけどね。冨士下とは、富士山の下つまり下戸塚村のあたりのことです」
「なるほど〜。たしかに宝泉寺のところから坂になって、下にずっと続いてますよね」

Kさんは記憶がさらに蘇ってきたらしく、別の紙に新しく書いてくれました。



もっと広範囲に書きたかったようです。
「穴八幡がここでしょ。こっち行くと近衛騎兵。。。水稲荷はやっぱりこうかな。入口は北側にもあって。。。」
「あ。L字型だ!あちらの皆さんが富士山がL字型だっておっしゃってて」
「ああ。浅間神社の敷地がね。富士山はここんとこ」

こんな調子で、昔話はつきませんでした。
面白かったのは、早稲田大学を含む北側の一帯を「山」と呼んでいたことです。そう言えば、十条の富士講の御年配も、地域の説明をするのに「海」と言ったり「山」と言ったりしていたっけ。彼らには縄文地図が頭に入っているのだろうか。



念のため、アースダイバー掲載のマップを見てみたら、やはり早稲田大学一帯は陸で、旧高田富士は崖の上。冨士下はむろん海でした。(色文字は私による)

「昔の高田富士はですね、ちょっと土台になったところに盛り土をしたんですよ」
ちょっと土台というのが、このマップ記号(●)でも「古墳」を示す「富塚古墳」のことでしょう。

「戦前からあった『ふじまつり』は、水稲荷の氏子と富士講が、もともと別々にやっていたのを一緒にやるようになったのです。かけ小屋ってわかりますか?見世物小屋のことですが、そんなものが建ち、ずいぶん賑わいましたよ。富士講のことをここらでは『お講』と呼んでいましたね」

一応、現在のマップも出しておきましょう。



カーサも健在。
(他のマップと同様に、早稲田通り側の旧参道入口にオレンジの矢印、富士塚跡には緑で色をつけてみました)


おまけです。まつりの後、ちょっと水稲荷神社の社務所に上がらせていただきました。



大広間に掲げられていたのは、富士山とちょっと艶かしい天女の絵。なぜか翼で空を飛んでいる。写真は失敗しましたが、実はこれ、鏝絵(こてえ)です。左官職人が漆喰を使って、こてで仕上げたレリーフのこと。ゆる〜くてイイです。
富士塚のお山開きで1番遅いところは練馬区の大泉富士ですが、2番目に遅いものは、富士講による最古の富士塚、早稲田の高田富士です。現在では、お山開きというより地域のお祭りとして知られていますが、富士塚が一般公開される貴重な2日間です。



2年前は「高田富士祭」、昨年から「高田ふじまつり」という表記になっています。

今年は、お世話になっているアウトドア業界のIさん、Tさんと一緒に出かけました。途中、中央区の鉄砲洲富士に寄ってきたので、待ち合わせ時刻をちょっと過ぎてしまいました。(なぜ鉄砲洲富士に行ったかはまたあとで)

2年前から、富士塚と富士講の資料コーナーが充実していますが、



今年はお札頒布の場所が移動し、



展示される貴重な品が増えていました。



丸藤講宮元講社の先々代先達の鮮明な写真なども、ファイルになって公開されていました。浅行先達は、比較的印刷物で目にしますが、この写真は初めてでした。目に独特の光があり、やはり「先達オーラ」を放っています。左側の石像は、その先達の姿です。富士吉田の北口本宮富士浅間神社でお目にかかれます。



富士塚レポは省略しますが、(昨年の様子は→こちらこちら

今回は上のTシャツにある「冨士下」に迫ってみました。

つづく。。。
写メを受け取った時、鳥肌が立ちました。



富士登山をしていた母からの画像です。
御来光は、社の形をした雲の向こうから昇って来ています。下界には勾玉型の山中湖。そして、光に向かって滑り出す龍の形の雲。また、巻きながら生まれる新しい雲。紅色に染まって集まる雲。。。手前中央には、卵形の異空間も見えます。何かの姿かエネルギー体か。。。

見ているだけでパワーが伝わって来ました。龍雲はしばしば富士山にあらわれるでしょうが、これは龍に縁のある母にコンタクトして来たように思えてなりません。女性で初めて富士登山をした、高山たつも龍に御縁がありますし、富士山と龍の関係は深いものがあります(信仰の上でも)。

台風4号の影響で、途中から暴風雨の中、恐怖を味わったようです(まだメールでしかやりとりしていません)が、とにかく母は無事に下山いたしました。元気です。私と一緒に母の安全祈願をしてくださった方たち、心から御礼申し上げます。

母のおかげで私も元気をもらえました。ありがとう♪
きっとまた、新しい何かが始まることでしょう。
今年の富士山は、今までになく「山ガール」であふれかえっていることでしょう(笑)。

「元祖 山ガール」、私の母も現在富士登山中です。たったひとりで向かいました。
ブランクがあるものの、今回はたしか18度目。



以前の写真から。
頂上の「馬の背」を目指す母です。まだ富士山測候所の多面体ドームがありますね。馬の背ってホントにキツい!短い距離なのに何十分かかったことでしょう。母は私より元気でした。

サプライズ好きな母は、たいていひとりでこっそりと登っちゃう。こちらは、富士山から届いた絵ハガキを受け取って初めて「あら!行ってたんだ〜!」と驚くわけです。今回は、事前に(というか当日だったけど)バレてしまったけどね。

今頃どうしているんだろう。無理はしないとのことだったけど、大丈夫かしら。



富士山もずいぶん変わったでしょうが、自分の足と気力だけが頼りの富士登山は、やはり過酷なこと。若い山ガールたちも、途中から苦しくなり「これは修行かも?」とつぶやくでしょう。



馬の背を目指す母のように、堀江富士(浦安の清瀧神社)の斜面にも、頂上を目指す先達たちがいます。



蝉だって、頂上を目指し。。。



昔の富士講がやったように、私も母の安全祈願をしに神社と富士塚へお参りしてきました。

かつて代参講の性格を持っていた富士講は、先達と数人だけが富士に向かい、留守をあずかる講員たちは彼らの無事を祈ってお参りをしたのです。そして帰還の際には「サカ迎え」といって、提灯を持った村びとが一行を村の入口で出迎えました。

大丈夫と思っていても、祈願する。これは大事なことですね。気持ちはきっと富士山に届くはず。そして当人は富士山のサポートを得られるでしょう。とにかく無事に御帰還ください。

ところで、以前母と登った頃のことをいろいろ思い出しました。



伊豆大島の三原山に登りました。溶岩だらけの光景は私に何かを語りかけ、私はあらためて火山のすごさを知りました。ふたりが見ている先には、海を隔てて富士山が雲から頭を出していました。



バスに乗って見晴らしのよいところに立つと、富士山はもっとくっきりしていました。私はこの光景が忘れられず、この翌月に母と富士登山に出かけたのでした。



おまけです。
火山博物館で火山と溶岩の学習もしてきました。
入口にある巨大な塊。エアーズロックみたい?
講碑はたくさんありますが、一番新しいのはこれ。2年前に建てられました。
丸八講、濱本(はもと)町のふたりの先達(前先達と現先達)の名が刻まれています。



黒御影の滑らかな面には、富士塚が映りこんでいました。
頂上の祠も鳥居も鮮やかです。

ここには何度も足を運んでいますが、講碑の中の富士塚は初めて見ました。特別な想いで訪れたこの日に気づくことができ、感慨深かったです。

実像と違い、なにかに映る虚像は、しばしば歪曲された時間軸の向こう側からやってきます。講碑に映った富士塚は、2年前のお山開きを呼び起こしました。





その日は雨も降らず、富士塚の前で祭事が催されました。講員たちは皆、N先達に敬意を払っているのがわかりました。私は拝みをあげるN氏の姿に釘づけになりました。

N先達は終始、凛とし大きな存在感を放っていました。(写真は私の本にも掲載)

昨年のお山開きでは、先達からあることを頼まれました。「自分は体調がよくないから、富士吉田の火祭りに行けないだろう。『御師の旧外川家住宅』に寄贈した丸八講の品々を写真に撮って来てほしい」と。

火祭りの旅から戻って、私は撮った写真と共に、歴史民俗博物館からいただいた資料(外川家住宅の調査報告書)を送りました。すぐに先達からお礼の電話をいただきましたが、お話をするうち、先達は寄贈品の一点ごとの詳しい画像リストを所望なのだとわかりました。「地元の皆に見せたいから」とおっしゃっていました。先達を引退したばかりのN氏は、今後の講のために、記録を残したかったと思われます。

私は吉田に通うことができないので、報告書の編纂に関わった学芸員の方に連絡をつけることになりました。しかし、残念ながらその後間もなくしてN氏が他界されたのです。多忙だったとはいえ、私が速やかに連絡を取りつけていれば、もしかしたら間に合ったかもしれないと思うと、悔やまれてなりません。

そんなお詫びの気持ちと生前のお礼をこめ、この日は亡きN先達の残した碑に手を合わせました。今、先達がどう思われているかわかりませんが、美しく映り込んだ富士塚は、私を慰めてくれた気がしました。



正面の石碑と頂上の鳥居は、いつも以上に赤く、



お山開きをすませたばかり(私が訪れたのは6日後です)の富士塚は、とても清涼感に満ちていました。



上から見た景色です。鳥居からふたつめが、先達の建てた碑です。土台のまわりはボク石が配置されています。



お山開きの余韻を感じました。独特のパワーが漂っていました。

ちなみに→八幡宿富士の記事一覧です。


カレンダー
01 2025/02 03
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28
リンク
カテゴリー
最新CM
[03/20 芙蓉庵]
[03/08 masapi21]
[02/22 芙蓉庵]
[09/15 芙蓉庵]
[09/09 吉田 千秋]
[01/28 芙蓉庵]
[01/28 芙蓉庵]
[01/24 MASA]
[01/22 MASA]
[10/15 芙蓉庵]
[10/12 吉田 千秋]
[10/12 吉田 千秋]
[07/16 芙蓉庵]
[07/10 吉田 千秋]
[12/10 芙蓉庵]
[12/05 槇田きこり但人]
[06/22 nobuting]
[06/22 芙蓉庵]
[06/21 nobuting]
[03/14 芙蓉庵]
[03/11 武本Timothy]
[02/23 芙蓉庵]
[02/22 エバポリタン]
[09/06 芙蓉庵]
[09/04 ひさ]
最新TB
プロフィール
HN:
芙蓉庵 (Yoko Arisaka)
性別:
女性
自己紹介:
▼▼▼【富士塚】とは▼▼▼
…………………………………
富士山に登りたくても登れな
い人たちの為に、江戸時代に
関東各地に造られた「人造富
士山」のこと▲です。富士山
を信仰する▲▲▲富士講によ
るもので▲▲▲▲▲したが、
地元に▲▲▲▲▲▲▲ミニチ
ュア▲▲▲▲▲▲▲▲▲の富
士山が出来たことで、多くの
人が登山でき、大流行しまし
た。民衆のパワーですね♪♪
富士山の溶岩をのせ、一合目
から頂上まで登れるようにな
っています。意外なところに
ひっそりたたずんでますよ。
…………………………………

▼▼▼【芙蓉庵】とは▼▼▼
…………………………………
美しい作品も好きだけど、コ
ンセプトありきで表現するこ
とに喜びを感じるビジュツ家。
表現形態はこだわりません。
現在、富士塚のコンセプトに
インスパイアされ、色々な媒
体で表現。著書の【ご近所富
士山の謎】【富士塚ゆる散歩】
も、私にとっては作品です。
なぜ富士塚か……それは、海
外生活での体験から。詳しく
は本のあとがきに記してあり
ます。

★★★★★★★★★★★★★
お問い合わせ、ご連絡は↓

y♡k♡◆ris◆k◆.◆rtist★gm◆il.c♡m
(♡をoに◆をaに★を@に変えて
入力して下さい)

★★★★★★★★★★★★★

掲載の写真・イラスト・文章等の
無断使用・転載は御遠慮下さい

★★★★★★★★★★★★★
バーコード
ブログ内検索
アーカイブ
mountains