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▲「富士塚」だけで日記が書けます♪▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
柵で囲まれた富士塚と以前の富士塚の様子。先月までは柵はなかったのです。 よし、裏まで回って観察してみよう! おや、光の具合で「大澤くずれ」がとても美しい。左斜面を行く行者の石像も苔むして色鮮やかです。う〜ん。意外とこの青竹柵は違和感ないな。。。とつぶやきながら歩く。柵は塚ぎりぎりに設置されていて、この円錐の富士塚の周りをすっきり回りきれます。 登れなくなったのは残念だけど、素材や作り方をよく見ると今まで見た柵の中で一番よい。竹の質もいいし、棕櫚縄も丁寧にくくってあります。そして、正面の登山口はこのように可動式の門となっていました。最大限竹を使用する工夫も見られる。これはなかなか好感持てました。塚の掃除や神事の時だけ開かれるのなら塚の為にいいことかもしれない。そう思うのは…… 確かにここ数年、岩が塚から崩落してたからです。近所の小学生たちが登っているうちに石が落ちるのも知っています。実は私も憂慮していました。正直に言えば、いつかこうなるのは予想をしていなくもなかったです。特に「今年はどうするんだろ!」と思っていました。 というのは、今年は4年に1度の「浦安三社祭」があるからです。大勢の人が集まるその祭に合わせて、神社は何か策を講じるのだろうかと頭をよぎったこともありました。この日清瀧神社の境内では、青年会の人達が、祭のための「鯉口シャツ」のサンプルを掲げていろいろ話し合いをしていました。 (浦安元町は、西組と東組に分かれていて、それぞれ西組若衆、東組連合と名づけられた青年会があります。祭では彼らの熱い活躍が見物ですよ♪) 今日からちょうど3か月後は「浦安三社祭」の初日「宵宮=よいみや」です。真っ暗な中、100基ある神輿全てに「みたまいれ」をする厳粛な場面に立ち会えます。町にはポスターが貼られ、いろんな告知や集会も始まりました。ワクワク感やドキドキ感を肌で感じられます。 富士塚がこのように柵で囲まれたのは、保存のためだけでなく、祭の時に人々が存分祭に集中できるよう、生活との共存を大事にしてのことなのかもしれない。……と、私はそんな結論に至りました。 この町で祭は神事としてとても大切です。ちなみに「浦安」という地名は、「日本書紀」の中でイザナギノミコトが言った言葉からとったとも言われています。(イザナギは、現在の日本のことを浦安と名づけました)
2日前の講義でお会いした人もいたけど、ふらっと自転車でやってきた参加者もいました。富士塚そのものの見学だけでなく、昔の情景も思い描くことができ、皆とても満足気でした。
一応ここの講を紹介。 小竹丸祓講(こたけまるはらいこう)。解散してます。 よその講からは、山万講(やままんこう)と丸三講(まるさんこう)。 神社の入り口にタイムリーな言葉が。。。(月変わり) 山岡鉄舟の言葉です。絵描きの山岡鉄斎(南画家)や富岡鉄斎(富士の絵を残した)と混同しそう〜(私だけ?)ですが、幕末の武士ですね。これは、鉄舟が剣の悟りを得た時に詠んだもの。 人はとかく自分の幸不幸を周囲のせいにしがちなのだが、本来あるべき自分をただそのままに生きて行けばよいのだ。平常心是道である。ってこと。 う〜ん。ありがたきおことば!
下山いたしましょう。(頂上から煙突が見えます。「浅間湯」とはさすが♪)
後発隊が路上探索から戻ってきたようなので、交代です。我々は境内を出ます。 石柵をまわり、駅を背にして神社の後ろに向かいます。遠くからでも頂上の奥宮がよく見えます。高さ8mもの大きな富士塚はかなり立派です。古墳を利用した塚であります。形は違いますが、駒込富士のようにね。 裏側にやって来ました。もうひとつの班がちょうど頂上に登ったようです。左(富士塚の真北)にある駐車場あたりは昔、池があって、そこにあの大山不動尊座像が祀られていたのです。 一行はもう少し神社から離れてみます。明治&大正時代のここ一帯の略図を眺めながら、Kさんの説明を受けました。現在江古田斎場になっている建物の向こう側に富士塚が見えます。おお!建物と富士塚の間あたりに池があった。おお!そして自分達が立っているあたりが川でした。おお!(たぶん現在は地下を流れてます)ふむふむ。石神井川の支流ね。そうですか。富士登山の前のみそぎは近所の川でやっていたのですかー。面白い。実に面白い!
ではさっそく、15人ずつ2班に分かれて登拝へ参りましょう。案内人は学芸員のKさん。
門を開けるとすぐ……変わらぬ姿の猿の像!(私のお気に入りです。笑) こんな位置関係。後ろに「同行=どうぎょう」の大きい石碑、その奥に頂上が見えます。結構距離があるんですが。 おっと、登山の前に、禊ぎのためのこんなスポットをチェックしときます。 大山不動尊座像が滝の上にあります。前回(去年正月)には滝は枯れていましたが、やはり水があるのはいいものです。この不動様は大山講のためのもの(だったと思います)で、この富士塚の裏手から移築したものです。では、登山道に戻ってふたたび。 合目石を確認しながら一歩ずつ。ちょっと進んだ右側には…… 太郎坊。奥の鳥居は5合目の小御嶽神社。 それをくぐると…… カラス天狗と(鼻のない)大天狗。 木漏れ日が美しい。 一旦引き返し、左側登山道からまわると「経ケ嶽=きょうがだけ」と身禄の碑。 中腹から頂上を仰ぐの図。気持ちいいなあ〜。 後ろの班はこれから神社の外に出て、周辺の探索へと出発だそうです。
「関東地方の山岳信仰と講集団」の講義の2日後、再び西武池袋線に乗りました。
この日は「江古田富士見学会」という課外講座です♪ 講師の先生はいませんが、郷土資料室の学芸員の方2名と一緒に、江古田の富士塚へ登ります。 江古田の(江古田生まれの私はエゴタと呼びますが)駅前に茅原浅間神社があります。 社殿の奥に富士塚がそびえています。集合時間までまだ余裕があるので、人はまばらです。前夜の大雨もすっかり上がり、ぽかぽかいい天気♪ 浅間神社本殿にお詣りしました。拝殿の奥がガラス張りになっています。写真ではわかりませんが、このガラス越しに富士塚がよ〜く見えるようになっています。 そうこうしているうちに、参加者が集まって来ました。定員30名様。
ホントは講義のつづき、いくらでも書けるんだけど、きっと読んでも面白くないと思うのでこのへんで。あとは自分だけの楽しみに。(ノートびっしり取ったし♪)
ただひとつだけ。 これは昔、東武美術館があった頃見に行った「富士の美」展で出ていたものですが、今から300年前に噴火した「宝永山」の様子。1707年12月16日の噴火だから、正確には300年と2か月ちょっと前ですね。(去年、噴火300年記念ということでいろいろあったようですが) 宝永の噴火によって富士登山のルートががらりと変わったのです。灰が重く積もり、東側つまり静岡のほうが壊滅的なダメージを受けました。そこで、吉田御師が山梨側からの北口登山を宣伝し、富士吉田は最盛期に突入しました。 「御師=おし」は、【御祈祷師】の「御」「師」が残った言葉で、いろんな講に重要な存在です。参詣する山の麓で宿坊を営み、参詣者の世話をする人です。伊勢講の御師だけは「おんし」と呼びます。 御師は地元を離れ、遠方まで講を広めに出かけました。一に「営業」二に「営業」。客取りは大変だったらしいです。 富士講に限りませんが、講の普及に関し「御師が先にいたのかそれとも講があって御師が発生したのか」を質問した人がいましたが、先生の答えは「卵が先か、鶏が先か……みたいなもんです(笑)」。 御師は誰かがどこかへ参詣したという噂を聞きつけては、そこへ出向き「○○詣では、よかったですか?」「講をつくりませんか?」などと誘ったりしたそうです。 そう言えば、私も富士吉田の御師のお宅で「講をつくりませんか?」と言われました♪
山国ニッポンだから、山岳信仰が昔から根強くかつ広範囲だというのはわかっていたけど。。。こうもたくさんあるとは。
今回は、関東限定のレクチャーだったのに2時間では短くて短くて。西海先生はどんどん話を飛ばし、内容もあっちこっちに及ぶ。予備知識のない人には何のことやらだったでしょう。でも、お話が面白かったので、(私はなんとかついていけましたけど)そうでない人にも楽しい時間だったみたいです♪ 現代は情報が簡単に手に入るし、いろんな人とのつながりも持てる。でも昔の人は血縁者以外で助け合うことはそれほど容易ではなかったのです。同じ信仰を持つ人達との集まりはもちろんですが、日常生活で助け合う為・結束する為に「講」はごく自然に必要だったのだ、ということがよくわかりました。(山岳信仰に関係なくても講の種類はおびただしい。何でも講になっちゃう。「マッチ講」なんてものもあったとは!まあそれはまたの機会に。。。あ、女人講は近々書くことになるかも) で、日本に霊山は数あれど、関東の山々はまあこんな。 私が気になる富士講は「出羽三山講」「木曽御嶽(おんたけ)講」同様、関東から離れた山を信仰するものですが、山が近くにあって盛んな講は「大山講」「秋葉山講」「武州御嶽(みたけ)講」「三峰講」「成田不動講」「筑波講」「筑波山大同講」「加波山大同講」「足尾山大同講」等まだまだ。。。 大山講は結構ポピュラーですが、北関東もこんなディープです。 講はひとつに入るとは限りません。一軒で数講に入るのは日常でした。たとえば、下の図録にあるように、旧家の天井裏から発見された御札からは「富士山/成田山/大山/三峰山/榛名山」を信仰していたことがわかります。(こりゃ年中忙しかったね〜と思われますが、お山の信仰は自分で行かなくても富士塚やミニ木曽御嶽山のような、築山が村内にあったり「代参=代表者が参詣」というシステムをとっていたのです) ついでにローカルな話。練馬区で催された講義というわけで、資料室にも練馬の面白い品々がたくさん。これは「上石神井村絵図」にある「道者道」の部分(図録から)です。 今も富士街道ってありますね。練馬区を北東から南西に横切る道。これが相模の大山へ続く「富士大山道」のことで、この図で「道者道」と書かれた道のことです。近くに私の馴染みのある土支田町(村)も出ていて、しみじみ面白く感じましたよ〜♪ つづく。。。(たぶん) |
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プロフィール
HN:
芙蓉庵 (Yoko Arisaka)
性別:
女性
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▼▼▼【富士塚】とは▼▼▼
………………………………… 富士山に登りたくても登れな い人たちの為に、江戸時代に 関東各地に造られた「人造富 士山」のこと▲です。富士山 を信仰する▲▲▲富士講によ るもので▲▲▲▲▲したが、 地元に▲▲▲▲▲▲▲ミニチ ュア▲▲▲▲▲▲▲▲▲の富 士山が出来たことで、多くの 人が登山でき、大流行しまし た。民衆のパワーですね♪♪ 富士山の溶岩をのせ、一合目 から頂上まで登れるようにな っています。意外なところに ひっそりたたずんでますよ。 ………………………………… ▼▼▼【芙蓉庵】とは▼▼▼ ………………………………… 美しい作品も好きだけど、コ ンセプトありきで表現するこ とに喜びを感じるビジュツ家。 表現形態はこだわりません。 現在、富士塚のコンセプトに インスパイアされ、色々な媒 体で表現。著書の【ご近所富 士山の謎】【富士塚ゆる散歩】 も、私にとっては作品です。 なぜ富士塚か……それは、海 外生活での体験から。詳しく は本のあとがきに記してあり ます。 ★★★★★★★★★★★★★ お問い合わせ、ご連絡は↓ y♡k♡◆ris◆k◆.◆rtist★gm◆il.c♡m (♡をoに◆をaに★を@に変えて 入力して下さい) ★★★★★★★★★★★★★ 掲載の写真・イラスト・文章等の 無断使用・転載は御遠慮下さい ★★★★★★★★★★★★★
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