▲「富士塚」だけで日記が書けます♪▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
[83] [84] [85] [86] [87] [88] [89] [90] [91] [92] [93]

ちょっとだけその予告画像です。

4年に1度の祭りの時だけ、こんな光景が展開されます。

子供は軽々と、このとおり。

浅間神社が入っている豊受神社が、最近繁昌しています(笑)。この日は七五三のお詣りに家族連れがたくさん来ていて、微笑ましい光景があちらこちらに見えました。たしかに神社には若い神官も増えて活気があり、お札やお守り類も充実してきたようです。

本殿のそばには大型の富士塚があり、初めて見る人々は「ほお〜」と足を止めます。でんとして見事な塚だからです。これに登る人はいませんが(私以外ね!)最近増えた参拝客に対して事故が起きても困るからこんな看板を立てたのでしょう。

浅間神社までは管理できないということですね。たしかに富士講を知らない一般参拝者に、これまた富士講を知らない神官たちが富士塚について説明できるわけもなく。よかったら私が富士塚の専属管理人になってもいいですよー。(笑)

ちなみに、来年はこの富士塚が【4年に1度】子供たちで鈴なりになる日があります♪ 
楽しみだぁ〜♪

新宿ゴールデン街からも、するりと行ける花園神社です。ここに富士塚があるのを知る人は多いか少ないか。。。まあ、どちらとも言えるような気がしますね。移築され変形を余儀なくされた不憫な塚です。小さくて登山道もないです(石段は3段)。この時は、何か工事の為のトタン塀が塚の途中を分断し、講碑は塀の向こう側に隠れてしまった。立派な碑なんですが。。。

それなりに愛されている富士塚です。個性はこれ!芸能の神様ってことです。富士塚のある神社を「芸能浅間神社」といいます。

富士塚の入り口には芸能人の名前が連なり、藤 圭子の歌碑があったり、ちょっとフシギな取り合わせに見えます。でも花園神社自体、芸能の神様として知られていますね。神社のHPにはこう出ています。

「宿場町としての新宿が栄えるとともに、総鎮守として多くの人々の信仰を集めていました。安永9年(1780)と文化8年(1811)には、大火で焼失した社殿を再建するため境内に劇場を設けて、見世物や演劇、踊りなどを興行して好評を博しました。花園神社と芸能の縁は、この頃から始まったものです」

私も富士塚の存在を知るずっと前から「芸能も芸術のうち」と都合よく置きかえ(笑)、この神様にお詣りしてました。また、唐 十郎の演劇を観に境内に設営されたテントに入ったり、地下クラブに行ったことも。酉の市で賑わうのも見せ物小屋が建つのもいいですね。

沖縄へ行く前日に撮った写メールが残っていました。

富士塚の頂上からの眺めです。やはりあやしいな(笑)。

さて、どこでしょう。(都心のどこかです♪)

いつもは人に気づかれないこの塚。

小さすぎるのと神社境内の暗い一隅にあるせいetc.

昨日の「二の酉」で大勢の人が来ても、暗がりの中でひっそりしていたはず。

私は浅草の酉の市へ行きましたけどね。。。

まずは、その背景から。

琉球と中国の関係は、実は琉球と日本の関係よりも歴史的に密接でした。中国は琉球をひとつの国と見なして関係を持っていたからですね。地理的に近いこともあって中国からの移民も多い。特に中国南東部の福建省とはつながりがあります。(世界中に散らばった華僑の中でも福建省出身者は多いのですが)

また、琉球人が福建省に移り住んでもいます。現地に琉球人のお墓もあるそうです。

福建省の首都、福州市は長崎と那覇と友好都市です。とりわけ那覇には福建省出身の人達が移り住んだ地区があるほど関係が深いです。14世紀に福州から「久米三十六姓」という特別な職人達が渡来し、久米村「くにんだ」と呼ばれる一帯に定着しました。それが福州園のある久米という地区です。

福州園が作られたのはそう昔ではありませんが、これは那覇と福州市の友好都市締結10周年の記念事業として福州市の町を再現したものです。この回遊式中国庭園は、四季を表現したパーツに分かれていて、小さいながら見どころ満載です。何度行っても飽きません。(私は那覇に行くたびここに寄ります)

中国庭園ですから、沖縄の様式は全くありません。でもガジュマルの木があったり、どこかしら琉球に通じる風土を感じさせます。なぜなら、福州市はガジュマル(榕樹)の木が植樹され、特徴的な景観をつくっていることから、「榕城」(ガジュマルのまち)とも呼ばれているのです。

そしてこの庭園は、故郷のミニチュアを通し、祖国への想いをはせる華僑の人々にとっての憩いの場でもあります。

富士塚のような築山は、福州市の中にある「烏山(うざん)」の再現です。

ここまで書いたらもうおわかりでしょう。この烏山には、富士塚に登ることによってバーチャルな富士山を味わう人々や、日本を想って現地の山々を富士山と呼ぶ海外の日系移民との共通の「想い」があったのです。

ある時このことに気づいて、私は言いようもない感慨にひたりました。人間てこんなに似かよった気持ちを持つんだなと。富士塚ではないけれど、私はこれを「久米富士」と呼んでいます。あ、正確には「福州富士」?ま、どっちでもいいですけど。

下の画像について。

少し前の記事にも書きましたが、那覇市の中心に中国からの移民が移り住んだ地域があります。その地区、久米という町に中国式庭園の「福州園」があります。そしてその中に、中国の人達にとっての【富士塚的築山】が存在するのです。その山は「烏山」と称されます。なぜ私がその山に着目したかというと。。。

とりあえず、そのように命名しときます〜(笑)。

滝も流れる築山です。裏側に見える屋根は民家ではありません。東屋です。

場所は。。。

現在八重山にはジュゴンは一頭もいません。(確認されている北限ジュゴン数十頭は沖縄本島付近です)でも、八重山ほどジュゴンと密接なところはなかったのではないでしょうか。


いくつかの島々(石垣島、小浜島、黒島、竹富島、新城島)の、古い歌謡にも出てくる(ユングトゥ、ジラバ、ユンタ等)など、ジュゴンの存在は日常生活の中にあったようです。八重山でジュゴンは「ザン」と呼ばれ「海馬」と表記されてました。



例えば、竹富島の「ざんぬユングトゥ」にはこんな歌詞で出てきます。



道端みっきやー…………………………道端に住んでいたミッキヤー

川端(カーバタ)かーりや、ばぬと……川端に住んでいたカアリヤー

三人(ミタイ)ぬむにぬどう……………と私の三人の言葉です

東(アイ)ぬ浜(ハマ)なはんまな………東の浜に

ざんなまぬ 寄(ユ)りんと……………ザンが打ち寄せられているそうな

たど見(ミツ)たね目(ミ)ぬど…………だれが見たか、目が

見(ミツ)たとう…………………………見たそうだ

たど聞(ヒ)くたね………………………だれが聞いたか

耳(ミン)ぬど聞(ヒ)くたとう…………耳が聞いたそうだ

たど走(ハ)つたね………………………だれが行ったか

足(パン)ぬど走(ハ)つたとう…………足が行ったそうだ

たど取(ト)つたね………………………だれが取ったか

手(テ)ぬど取(ト)つたとう……………手が取ったそうだ

たど食(フオ)つたね……………………だれが食べたか

口(フチ)ぬど食(フオ)つたとう………口が食べた

食(フオ)つたる口(フチ)やくらさな…食べた口は叩かず

尻(スビ)くらすった、尻(スビ)や……お尻を叩いたら、お尻は

泣(ナ)なー、目(ミ)ぬ泣(ノ)つたー…泣かずに、目が泣いた

鼻(ハナ)やすぶんてー…………………鼻も涙を流したそうだ



伝承話では違ったニュアンスもありますが、興味深いですね。
このように、ジュゴンはかつては食の対象(または食の興味の対象)でした。しかし、八重山諸島のひとつ「新城(あらぐすく)島」だけはジュゴンにまつわるつらい歴史があります。


ジュゴンの肉が珍味であることまた不老不死の薬と扱われた理由で、この島はジュゴンの肉を献上すべく首里王府によって漁を強いられました。首里では中国からの冊封使(さっぽうし=琉球国の国王が交代するたびに中国皇帝が使者を派遣して新王を承認しました。その皇帝の勅使たちのこと)を歓待する宴にはジュゴンの肉をふるまったそうです。通説ではあの悪税「人頭税」としてジュゴンを納めさせられたと言われていますが。


歴史を書くにはスペースがないので、祀られるジュゴンについて進めます。


ふたつの島からなる新城島は神高い島とされています。島にひとつずつ、ジュゴンの御嶽(うたき)=「アールオン(東御嶽)」と「ナナゾウワン(七門御嶽)」があります。
御嶽にはジュゴンの骨が納められているそうです。決して近寄ってはいけない神聖な場所なので外からの撮影も禁止です。


私は5年前にこの島のひとつを訪れました。隣の黒島から数人のシュノーケリングツアーで上陸しました。ガイドの人が島の区長(公民館長)さんに挨拶をした後、ジュゴンの御嶽以外を案内してくれました。人口が5人ほどの島は、静かに夏の日射しを受け、独特の空気を放っていました。集落や浜の他、私たちは豊年祭が行なわれる「ナハウガン」、そこに近い「イルオン(西御嶽)」に立ち寄りました。ジュゴンを祀る「アールオン(東御嶽)」がこの地続きにあるんだ……と少し緊張した気持ちになりながらも。


(私が行った2か月前には「やしの実大学」の公開講座で、公民館長によるワークショップがありました。参加したかったな)


秘祭とも呼ばれる神事がある島だと知ったからでしょうか。ジュゴンの御嶽があるからでしょうか。確かにその島は違っていました。太陽の光が濃いのです。風が吹いてもなぜか密なのです。でも、とても清清しい気持ちでいられました。おそらく太古からその空気は変わっていないでしょう。その「なにかフシギな感覚」こそ神高いとされるゆえんでしょう。


神格化されたジュゴンは私にとってGODDESSでもマーメイドでも構いません。
島の土を踏みしめ自然神に対する畏敬の念を味わえたのは、有り難い贈り物だと思いました。


画像は「タカニク」と呼ばれる火番盛です。頂上から他の島々がよく見えます。
(御嶽でもよかったけど、こっちが富士塚に似てるから。笑。当時セピア写真に凝ってましたー。)


カレンダー
01 2025/02 03
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28
リンク
カテゴリー
最新CM
[03/20 芙蓉庵]
[03/08 masapi21]
[02/22 芙蓉庵]
[09/15 芙蓉庵]
[09/09 吉田 千秋]
[01/28 芙蓉庵]
[01/28 芙蓉庵]
[01/24 MASA]
[01/22 MASA]
[10/15 芙蓉庵]
[10/12 吉田 千秋]
[10/12 吉田 千秋]
[07/16 芙蓉庵]
[07/10 吉田 千秋]
[12/10 芙蓉庵]
[12/05 槇田きこり但人]
[06/22 nobuting]
[06/22 芙蓉庵]
[06/21 nobuting]
[03/14 芙蓉庵]
[03/11 武本Timothy]
[02/23 芙蓉庵]
[02/22 エバポリタン]
[09/06 芙蓉庵]
[09/04 ひさ]
最新TB
プロフィール
HN:
芙蓉庵 (Yoko Arisaka)
性別:
女性
自己紹介:
▼▼▼【富士塚】とは▼▼▼
…………………………………
富士山に登りたくても登れな
い人たちの為に、江戸時代に
関東各地に造られた「人造富
士山」のこと▲です。富士山
を信仰する▲▲▲富士講によ
るもので▲▲▲▲▲したが、
地元に▲▲▲▲▲▲▲ミニチ
ュア▲▲▲▲▲▲▲▲▲の富
士山が出来たことで、多くの
人が登山でき、大流行しまし
た。民衆のパワーですね♪♪
富士山の溶岩をのせ、一合目
から頂上まで登れるようにな
っています。意外なところに
ひっそりたたずんでますよ。
…………………………………

▼▼▼【芙蓉庵】とは▼▼▼
…………………………………
美しい作品も好きだけど、コ
ンセプトありきで表現するこ
とに喜びを感じるビジュツ家。
表現形態はこだわりません。
現在、富士塚のコンセプトに
インスパイアされ、色々な媒
体で表現。著書の【ご近所富
士山の謎】【富士塚ゆる散歩】
も、私にとっては作品です。
なぜ富士塚か……それは、海
外生活での体験から。詳しく
は本のあとがきに記してあり
ます。

★★★★★★★★★★★★★
お問い合わせ、ご連絡は↓

y♡k♡◆ris◆k◆.◆rtist★gm◆il.c♡m
(♡をoに◆をaに★を@に変えて
入力して下さい)

★★★★★★★★★★★★★

掲載の写真・イラスト・文章等の
無断使用・転載は御遠慮下さい

★★★★★★★★★★★★★
バーコード
ブログ内検索
アーカイブ
mountains