▲「富士塚」だけで日記が書けます♪▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
この富士山の頂上は、こんな風に組み立てましたが、 五雲亭貞秀が描いた「富士山真景全図」のオリジナルは、このように、 頂上の詳細な部分が「起し絵」となって、平面の絵に接着されています。中心の、「内院」と呼ばれる火口には、食行身禄の残した歌「ふじのやま のぼりてみれば なにもなし よきもあしきも わがこころなり」が書かれています。 レプリカでは、その部分は畳んで撮影されているので、しかたなく私は、白い部分を切り取り、各嶽の部分を適宜にカットして内側に折り込んだのでした。 しかしながら、細部の名称を知ったからには、オリジナルのように再現して組み立てたいと思うのは、私だけではないでしょう。実物は「神奈川県立歴史博物館」の所蔵ながら非公開作品なので、なかなか目にすることはありませんが、いつか展示される際には(学芸員の方から連絡をいただけるとの由)、ブログにてお知らせいたします。 さて、もうひとつのトリックです。 本体と別に、約10×5cmの横長の その部分をめくると下に出てくるのが、 これです。富士山麓にある洞窟、つまり胎内であります。 「土中胎内之図」とあり、胎内入口や、内部で腹ばいになって巡る人々が描かれています。 富士講に興味ある方は、もうピンときたことでしょう。この胎内の図、どこかで見たことがありますね? つづく。。。
五雲亭貞秀のことを詳しく書く前に、この作品「富士山真景全図」に迫ります。
これは、ペーパークラフトになるレプリカですが、 実物は、一辺が約1m。嘉永初期に描かれました。富士山を上空から描いたものです。大変正確で、計算によると600〜700mくらい上から見たとおりらしいです。この人は、これだけでなく、数々の作品でこの類いのものを残しているので、「空飛ぶ絵師」と呼ばれたりします。 「富士山を上空から描いたもの」と言ったら「あれ?宝暦11年(1761)に描いた、池 大雅(いけのたいが)★の『富士全図』があるじゃないか」と思われるかもしれませんが、貞秀の『富士山真景全図』は、立体に組み立てることを考えて描かれたものですから、計算ずくに描写されています。 ★池 大雅(いけのたいが)の『富士全図』と、後年それを模写した富岡鉄斎の『富士山絶頂之図』に関しては後で。 五雲亭貞秀の『富士山真景全図』が、それらと全く違うのは、ただの富士登山道の姿を描いたものでなく、富士山信仰(のため)の作品になっているからです。例えばこのように、 白地の三角部分があります。そこには、書行藤佛(長谷川角行)と食行身禄のふたり、及び、富士行者の姿が描かれています。行者たちは、登山/中道/胎内/等、それぞれの場所によって変わる、着衣の説明つきです。また、富士吉田の火祭の大松明まである。 白い部分を切って左右を貼り合わせると。。。 大沢谷から鳴沢までができあがります。そこから反時計まわりに見ると、 「大宮口」(富士宮口)の登山道が克明に描かれ、 宝永山はこんな感じ。 さらに、「須山口」「スハシリ」「吉田口」の文字と共に、詳しい描写が。名所岩もあるし、ムロ(石室)の位置まで。 特に、吉田口は細かくて「馬カヘシ」「スヽ原(=鈴原神社)」「小ムロ仙元(=小室浅間)」とか、「コレヨリ女人キンセイ」も書いてあるし「コサ石仙元(=御座石浅間)」「經カタケ(=経ガ嶽)」「泉タキ」「エホシイワ」「カメイワ」もあります。 でも、まだまだこんなものではありません♪ つづく。。。
先月、「五雲亭貞秀」のことを書くと予告しました。
満を持して書くことにします。 五雲亭貞秀という絵師、別の画号を歌川貞秀と言いました。 生きていたのは、1807(文化4)年〜1879(明治12)年頃。 下総国(千葉県)東葛飾の生まれです。 今年は横浜開港150周年にあたり、横浜の絵を数多く残す貞秀の作品は、 各地で目にすることができますが、私のブログでは富士山に関する 絵画についてのみ紹介します。 まず、いきなりこんな作品です。 富士山の立体です。 上から見てみると。。。 こんなです。精巧です。「立版古(たてばんこ)」とも「起こし絵」とも言い、切り抜き細工絵の一種であります。貞秀は浮世絵師なので、もちろん書いたものは平面です。 しかし、こんな風に組み立てることを想定し、かつ、この中にいくつかのからくりを有しているのは、驚きであります♪ つづく。。。
現在、鳥居のそばには池しかありませんが、江戸末期頃までは、鳥居の目の前まで海水が打ち寄せていました。
白砂青松の汀で、大祭に「放魚」が行なわれていました。 放魚とは、海に命あるものを放つという儀式です。 奈良時代、九州でおこった「隼人の乱」で多数の犠牲者がでました。その霊を弔うため、国ごとの八幡宮にて、仲秋の名月に行なわれるようになったのが「放生祭」です。 ここ、飯香岡八幡宮でも放魚をしていましたが、時代を経て海岸線が遠くなったので、ここに残った池を放生池と呼んでいます。 鳥居の扁額が素晴らしい。上り龍と下り龍です。(私には鯉かナマズにしか見えませんでしたが) 手水舎では水がたっぷり流れていました。 「ここのは由緒あるんだよね〜」 寛文の作。 素晴らしい龍の姿です。 地元の歴史研究家の方とお会いしました。 「これはスゴい龍なんです。表情豊かな姿だけでなく、その表面がスゴいのです。いつもは水にぬれていてわかりませんが、それが乾くと輝きを放ちます。金泥が塗られているらしいのです」
「日食に合わせてお山開きを設定したのですか?」
「そんなことはないよ。偶然だよ。行事は昔から、旧暦に合わせてだよ。でも、この日に日食が見られたのはよかったね。」 「そうだ。後ろ姿も撮ってもらおうかな」 「はいはい。向こう向いて」 ↓こちらは、もうひとつの講、濱本町の前先達、N氏です。 「今年の吉田の火祭りは、筒屋(づづや)さんでご一緒ですね」 「う〜ん。どうかな。体調がよければ行きますよ」 「え〜?27日の朝は、横須賀のS先達の塩加持を受けるんじゃないんですか?」 「今のところわかんないな」 Nさん、とにかくお体を大切にして下さい。 当日は、ぜひ現地でお目にかかりたいものです。 ちなみに濱本町の皆さんは、筒屋さんの前は外川家にお世話になっていました。 (外川家のことは来月たっぷりレポします) 「まあまあ、いいから座ってお酒飲んで。」 「あ、はい」 直会は、ここから延々と始まりました。 たっぷりのお酒。おつまみ。そしてお寿司。本当にごちそうさまでした。 それにしても空きっ腹にお酒。。。やっぱり酔いが早いっす。 「なんとハデな手拭いに、ええっと。。。観音町はやし連」 わ。祭りオーラ全開の皆様。
八幡宿富士のたたずむ空間は、いつも素晴らしく澄んでいますが、その日は特別な気に満ちていました。
薄暗いけれど、草木も鳥もくっきり見えます。 え?鳥? キジバトが、逃げもせず富士塚の中腹に遊んでいました。それも2羽。 逃げないのも何となくフシギな感じがしました。 何かメッセージがあったのかしら? さて、頂上に張られた注連縄に注目。 人が立てる頂上は円形ですが、注連縄の形を見ると正方形です。頂上付近のボク石が四方に飛び出ていているからです。以前からフシギに思っていましたが、講の方たちにお話を聞いてようやくわかりました。 ここでは、かつて神輿を担いだまま登拝していました。(そのため登山道がややなだらかなのですが)私は、神輿を頂上まで持って上がるとばかり思っていました。でも実際は、神輿は頂上に差し出すだけで、人間は頂上のすぐ下の斜面に立つのだそうです。それで、頂上の縁が角形になっているらしいのでした。ちなみに神輿を担いでいたのは数年前まで。現在は講員の高齢化が進み、体力的にできなくなったのです。どこでも同じ悩みをかかえていますね。 太陽が出て、皆がどよめいていた頃。お神酒を持ったまま呆然と空を見上げる先達。 直会も魅力的でした。 つづく。。。
22日の朝、市原あたりは、相当ドシャブリだったそうです。
私が到着した頃は雨はすっかり上がっていましたが。 10時少し前、飯香岡八幡宮の境内に滑り込みました。 富士塚のほうへ走ろうかどうしようか。。。躊躇していると、にこにこしながらこちらを呼ぶ方がいらっしゃいます。手には私の本を持ち、たくさんのお友達と一緒に。 「あ!千駄ヶ谷富士でお会いしたNさんだ!」 再会できてとても嬉しかったのに、開山式がどこで行なわれるか気が気でなく、挨拶もそこそこに「あ、あ、後でまた!」とその場を去ってしまいました。ごめんなさい!その後お会いできずに残念でした。 富士講の方たちを探すと、本殿の中に入って行く姿が見えました。 講の方に促され、私も中に入らせていただきました。 「こっちこっち」 手招きをするのは、先達のK氏。 私が座ると、ちょうど儀式が始まりました。 宮司の祝詞が聞こえる中、講のみなさんは頭を下げます。向く方角は、本殿の奥にある御神体でなく、富士山の方角でもなく、富士塚(八幡宿富士)のある方です。 廊下の突きあたりから少し離れた浅間神社(富士塚)が見えます。 いつもそうなのですが、こういう神事に参加させていただくとき(特に撮影を許可された場合)、いつも悩んでしまいます。「ちゃんと撮らなければ」という気持ちと、「いや、この体験は貴重だ。富士山への気持ちを優先にしたい」という気持ちとのせめぎ合いがあります。つまり、「見学」と「参加」の間でどう折り合いつけるかです。 たいてい、最初は取材の意志をもって居合わせるのですが、その場の空気が変わっていくうち、取材どころでなくなります。私も富士山の信心がありますから、気づくとカメラを置き、ひたすらひたすら「有り難い〜。有り難い〜」とこうべをたれ、感慨にひたることになる。そして、撮った写真はピンボケだらけ。。。その繰り返しです(笑)。 さて、儀式の最中に起こったことです。 それまで、社殿内は空気が淀んでいて、汗が出るほど蒸し暑かったのに、祝詞が上げられた後、開け放たれた扉から、突然、涼風が入ってきました。それは、富士塚の方から吹いて来る風でした。 単に風向きが変わったとかでなく、明らかに違った空気の流れがありました。 以前、ある人から教えていただいた「霊的なメッセージは、風を使って伝えられる」という、その現象を体験したのだと思いました。 参加した講員は、われらが富士山に向かい、祈りを送り続けました。時刻は日食の真只中。波動が一番伝わりやすい頃でした。そして、聖地とも言える富士塚がそれに応えたのではないか。私にはそう感じられました。 富士塚が「富士山に登ったと同じ御利益」と言われる本質は、こういうことなのではないでしょうか。富士山に通じる富士塚に、富士山の神様が降臨し信者に語りかける。富士塚は、神籬(ひもろぎ)と同じことなのです。 神事は進みます。宮司が去った後、ふたりの先達の玉串奉奠です。(ここ、八幡の富士講は、ふたつの町からそれぞれ先達を立てて一緒に祭事を催します) 観音町の先達、K氏。 濱本(はもと)町の先達、U氏。 実は、両先達とも今年がデビューです。(先達は代替わりしたのです) 昨年、観音町のK氏からいただいた連絡を思い出しました。 「大変なことになった!今度、自分が先達を引き継ぐことになったんです!」 「それはおめでとうございます!お忙しくなりますね」 K氏は、出羽三山の講もやってらっしゃるので、そのご多忙ぶりは想像できました。 この日も、前日の三山参りから戻ったばかりとのことでした。 先達は、やや緊張しながら、晴れの祝詞奏上を済まされました。 本殿の中はとてもカラフルです。 この飯香岡八幡宮は、白鳳4年(676年)に創立された由緒ある神社です。 読み上げた祝詞はこちら。ふじまるはちとは、ここの富士講、丸八講を表わしています。 社殿での儀式が終わり、お神酒が振る舞われました。 「ささ、直会にうつります。移動しましょう」
明るいうちにチェックした数点。
「やはり烏帽子のカタチですね〜」 小御嶽から折り返し、頂上へ向かう道の脇にある大きな石。烏帽子岩です。 木の根元にあるのであまり気がつかれませんが、存在感たっぷり。 その下方の暗がりには(頭のない)大天狗。奥には不動明王像があり、やはり頭がなく別の石が乗せられていました。 登山口に近い斜面に埋まったふたつの石像。そのうちこれがもうひとりの天狗のよう。先の大天狗と対の小天狗でしょうか。後ろ姿に翼があります。 御胎内も美しく、祀られていました。 まだ日が高いと、登拝者も氏子さんもあらわれません。祭りの雰囲気を味わうために、少し待つことにしました。富士塚と反対側にある富塚古墳(しばしば高田富士と間違われます)の近くには、富士山ナンバーの車が! 裏の住宅街に抜ける道にも提灯が飾りつけられていました。町内から集められた川柳が可笑しい♪ 夕暮れになりました。人々が集まってきました。お山も妖しく(?)ライトアップ。 頂上では、氏子の皆さんがにぎやかに迎えてくれます。 「あれ? 去年も来てたよね?」「バレたか(笑)」 いただいた登頂記念は、小さな金剛杖!? これはアイディアもの♪です。ぐっときました。 ちなみに去年の記念は【笹竹アレンジ】。 「去年と違うって? ハハハ、毎年変えているんですよ〜」 今年は何だか気合いが入っています。鉦の叩き方もこのように。 富士山が火山だという意味で、お焚き上げもあり。 さて、高田ふじまつりのもうひとつの催し物。水稲荷神社の境内にある神楽殿では、「戸塚囃子」が披露されました。 戸塚囃子とは↑ 今回の参加者の中に神田囃子をやってる方がいて、江戸のお囃子についてお話を聞いているうち、盛り上がってきました。いろんな流派があるのが興味深いです!今まで、何となくしか聞いてなかったことがわかりました。そう言えば、富士塚のあるところでは、お囃子に縁があります。神田柳森富士のある柳森神社では神田囃子、島根富士のある鷲神社では島根囃子、葛西金町富士のある葛西神社では葛西囃子、(千葉県ですが)八幡宿富士のある飯香岡八幡宮では八幡囃子、そして高田富士のある水稲荷神社では戸塚囃子。ほかにもあったと思います。 お囃子連は、地元だけで演奏するとは限りません。この日、アウェイで叩きに来たのは、埼玉県和光市からの和光太鼓の方々。(お囃子とは違うかもしれませんが、和光にもたくさんの富士塚がありますね) 素晴らしく熱いリズムに、私たちはすっかり魅了され、 盆踊りが盛り上がる頃、私たちも地元の方たちにまじって踊りました。 盆踊りなんて何年ぶりかでしたが、すごく楽しかったです! いいですね〜♪ 老若男女がこのとおり。 結局、夜9時までお祭りを楽しんでしまいました。 今回参加された皆様、長い時間お疲れ様でした〜! ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ |
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プロフィール
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芙蓉庵 (Yoko Arisaka)
性別:
女性
自己紹介:
▼▼▼【富士塚】とは▼▼▼
………………………………… 富士山に登りたくても登れな い人たちの為に、江戸時代に 関東各地に造られた「人造富 士山」のこと▲です。富士山 を信仰する▲▲▲富士講によ るもので▲▲▲▲▲したが、 地元に▲▲▲▲▲▲▲ミニチ ュア▲▲▲▲▲▲▲▲▲の富 士山が出来たことで、多くの 人が登山でき、大流行しまし た。民衆のパワーですね♪♪ 富士山の溶岩をのせ、一合目 から頂上まで登れるようにな っています。意外なところに ひっそりたたずんでますよ。 ………………………………… ▼▼▼【芙蓉庵】とは▼▼▼ ………………………………… 美しい作品も好きだけど、コ ンセプトありきで表現するこ とに喜びを感じるビジュツ家。 表現形態はこだわりません。 現在、富士塚のコンセプトに インスパイアされ、色々な媒 体で表現。著書の【ご近所富 士山の謎】【富士塚ゆる散歩】 も、私にとっては作品です。 なぜ富士塚か……それは、海 外生活での体験から。詳しく は本のあとがきに記してあり ます。 ★★★★★★★★★★★★★ お問い合わせ、ご連絡は↓ y♡k♡◆ris◆k◆.◆rtist★gm◆il.c♡m (♡をoに◆をaに★を@に変えて 入力して下さい) ★★★★★★★★★★★★★ 掲載の写真・イラスト・文章等の 無断使用・転載は御遠慮下さい ★★★★★★★★★★★★★
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