▲「富士塚」だけで日記が書けます♪▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
富士塚は「名所江戸百景」などの浮世絵や、「江戸名所図会」「江戸切絵図」「絵本江戸土産」の中に登場しますが、「江戸切絵図」の中で富士塚を見つけた時の喜びは格別ですね。 男性でもつい「カワイイ♪」ともらすほど。 それにもうひとつの楽しみ、江戸ではないですが、富士塚が描かれているものに「鳥瞰図」があったんです! 下の記事の を引いてみます。。。 「サムネイルが(画像が大きすぎて)出ません」と出るので(笑) こんな場所。 を引いてみると。。。 こんな場所。 文字はつぶれますが、全体図は こうなっています。「千葉県浦安町鳥瞰」の元町。 昭和6年当時の、海の方を向いた眺めです。東西線も走っておらず、田畑が広く続いています。もちろん、海もすぐそこ。新浦安なんてナシ。 赤い囲みの部分、右側は「堀江富士」の描かれた清瀧神社。左が「猫実富士」が確認できる豊受神社(表記は豊受天神宮)です。 この鳥瞰図は、大正から昭和にかけて活躍した鳥瞰図絵師、松井天山(本名 松井哲太郎)によって作成されました。天山は、昭和初期、千葉県各地の鳥瞰図を残しています。市川、津田沼、船橋、八幡町、検見川などなど。浦安もそのひとつです。鳥瞰図(復刻)は高価で購入可能ですが、JR船橋駅には、南口の壁に船橋の様子を描いた鳥瞰図が銅板のレリーフになって設置されています。 以前から浦安の鳥瞰図は知っていましたが、小さなサイズしか見たことがなかったので、全体の把握しかしていませんでした。ところが先日、これに富士塚が描かれているのを発見し、小躍りしました♪ そうだ!地元の方に見せてみよう!と大きく引き伸ばしA2サイズに作り直し、いつもお世話になっている方にプレゼントしました。 「え〜?こんなのがあったの♪ 面白いねぇ」 「どれどれ。昭和6年の? いやぁ自分が生まれた年だよ(笑)」 「てんぐ山(猫実富士)が絵になってるね! あ、こっち(堀江富士)もだ!」 「この銭湯の位置はおかしいね。 でも確か区画整理でこのへんは移動されたんだ」 「今は広い道路ができたけど、昔はこっちに小学校があって中心地だった」 「ああ、この川は塞がれて今は暗渠になってる」 「山本周五郎の下宿してた船宿はこれだよ」 「こっちが東京へ渡る船の船着き場。橋はまだできてないからね」 「日本橋のほうへ荷を運んだ蒸気船が出るのはこのへん」 「や、○○商店はこの頃からあったんだ!!!○○医院もだ!!!」 「子供の頃に遊んだのはこのへんかな。そのあと、キティ台風で水びたしだ」 「ほら、弁財天は海のほう。田んぼの真ん中だね♪ このあたりは低い土地だから、昔はしょっちゅう水をかぶった。だから、弁天様の松の木の根っこから水が越してこないように願かけさ。『根を越さねぇ』→『根越さね』。それが『猫実』に転じたんだね♪」 ルーペを覗き込みながら、あっと言う間に楽しい時間が過ぎました。 そんなご年配のお連れ合いと出かけたのは。。。 つづく。
最近、なぜか複数から「村山古道」へのアプローチがあり、気になっています。
村山口登山道は、約100年の眠りから目覚めたとして、知られているものです。 平安時代から修験者たちによって使われていた「最古の富士登山道」ですが、明治39年(1906)に大宮新道、つまり大宮(=富士宮)から現在の新6合目に通じる近道が開通したために衰退し、ほぼ100年間、荒廃したままでした。2年の歳月をかけて、2004年に復活したこの道は、通称「村山古道」と呼ばれ注目を集めています。 「村山古道」の復活は、「富士山クラブ」のHPの中の【村山古道復活記念 富士山完登プロジェクト2005 】に詳細が出ています。 地形図はこんな 海外メディアにも取りあげられ、2004年10月19日付のHerald Tribuneには、活動内容だけでなく、外国人として初めて富士登山したオールコックもここから登ったと書かれています。 その、村山古道を復元したプロジェクトのリーダー、畠堀操八さんの著書はとても面白いです。復元のプロセスも興味深いですが、もともと修験のために使われた村山口登山道が、深い歴史を持ちながらもなぜ衰退したのか。などなど詳しく書かれています。 特に面白かったのは、江戸時代に描かれたこれらの絵図。(強調のための色つけは私) 表口(静岡県側)からの登山図ですが、右側は吉原宿(静岡県富士市吉原)から大宮道をアピールした図。大宮(富士宮)つまり富士山本宮浅間大社へと誘うルートです。左は村山道のアピールで、村山浅間神社へのルート。それぞれ、強調したい道の幅や神社の大きさが違いますね〜。要するに、2つの神社の間で客の取り合いが静かにあったようなのです。政治的な背景はまた興味深い。 そんな苦労もあった表口の歴史は、中央線が開通し北口がにぎわうようになってから、また変わることになりました。先に書いたように、明治39年、富士宮側が「対北口」策として現在の新6合目に通じる近道を作り、登山者がそこに流れたというわけです。 さて、なぜ村山古道が気になっていたかというと、このルートにかかせない富士塚が田子の浦にあるからです。 この富士塚は、江戸や近隣の富士塚とは目的が全く違っています。登山者は山に入る前、海で水垢離(みそぎですね)をした後に石をひとつ積み上げるという儀式をした、それが富士塚として形づくられたということなのです。 上の画像は、「目で見る富士市の歴史」より明治時代の富士塚。 現在は、コンクリートで固められてこんな姿です。鈴川の富士塚と呼ばれています。 この富士塚の存在は知っていましたが、詳しく知ったのは最近です。2月に富士山クラブの方たちの宴に参加させていただいた折、この富士塚が昔の富士登山の起点であると教えていただきました。その時「一緒に村山古道を登りましょうよ」と言われ、いつか私も参加したいな〜と思っていました。 実現するのはいつになるかわかりませんが、最近またこの古道が気になったのは、ある方から「もしかしたらあなたは、富士氏と関わりのあった過去世を持っているかもしれませんね」なんて言われたことです。富士氏は富士亦八郎のことがちょっと出てます。全然無関係かもしれないし、調べるのには時間がかかりますが、いずれにしろ、知るということは面白いことです。子供の頃、静岡に住んだ時期があったとはいえ、こちら側からのことはほとんど知らないし、学べる楽しみが増えたと思えばとても有り難いことです♪
山のマークについてふれたので、ついでに♪
富士講の紋「講紋」、正確には「講印」をダダダダッと並べるとこんなです。 取材の際に北区からいただいた「田端冨士三峰講調査報告書」の中の「紙本着色冨士講惣印図」通称「百八講紋(印)曼荼羅」の画像です。 江戸時代には「八百八講」もあったと(誇張して)言われる富士講の多さですが、これには108種類が載っています。(実際はもうちょっと多かったようですが、関東全部だとどのくらいなんでしょう!) 講印は、富士登山の時の笠にもついていたので「笠印」とも言われますね。 その他、マネキと呼ばれる講旗(→こんなの)にも、また、富士塚にある講碑にもついていますから、印象に残るロゴであります。(昔は、商家や旧家は屋号を持っていましたが、デザイン的にも類似していますね) 横須賀丸伊講の斎藤先達(バリバリ現役!)は、こんなふうにおっしゃってました。 「マネキは、つい名刺がわりに配っちゃうんだよ」 わ、私も欲しい♪
下新倉富士は、日の光りを浴びるとこんなにイイ感じ。(大泉富士や下練馬富士や浅久保富士と同系の丸吉講の築造)
昭和の頃の写真を見ると、登山道がくっきりしてるし、きれいな円錐の山容もわかるのですが、現在は植込みがこんもりしています。また、以前は石碑も全く違う位置にあったのがわかりました。 浅久保の文字が読める古い碑が斜面に倒れていたりしますが、 昭和10年以降の新しい講碑もあり、ほかにもいろいろ。特に明治4〜5年のものが多く、塚の築造は明治4年とされているようです。 この水盤が明治4年のものだからでしょう。左奥にいるのは、対の猿ですね。 壊されていることと、石の具合から察するに、これもかなり古そう。二匹並んでいるのは後年何かの都合によって並ばされたのでしょう。(台座も固定していないし) 頂上の浅間大神の碑がナゾです。裏に嘉永元年(1848)の年号が刻まれています。 でも、(近くの白子富士の築造が明治3年、浅久保富士が明治6年ということから)下新倉富士の築造年が明治4年説に落ち着いたのはいいとして、この山の模様は他の丸吉講とちょと違う。 峰の数が3つでなくて4つです。(左側が欠けているから5つの可能性も?でも5峰は。。。お伝え本の中に見たことあるけど、石碑にはないかな〜)4峰を使った紋を持つのは、丸瀧講と官位講と丸岩講くらい。てことは、白子富士を造った丸瀧講のものでしょうか??? 他の講からの奉納碑ってのもよくあることで、その可能性もあると思ってこの碑の奉納者名を調べてみたら、どうやら白子の人ではなくこの地域の人たちでした。う〜ん。てことは昔はここも丸瀧講で後に丸吉講になったとか?白子の丸瀧講(白子出身の商人が江戸から丸瀧講を持って来た)が伝わってもおかしくない。 でも嘉永年間は古すぎる。いや、時々ありえない年号を故意に刻むことはあります。昔の人の「シャレ」なのか「見栄」なのか。。。まあだからこそ、文字はあまり信用しなくてもいいのでは、と思ったりするんですが(笑)。 私は、富士塚は「謎多きことも魅力のひとつ」と思っていますから、これもロマンのうち。それに、近代/現代人があちこち移動して辻褄合わなくなっているものも多々ありますからね。(そう考えると、学者さんは翻弄されっぱなしで御苦労ですね) さて、下新倉富士のあるのは下新倉氷川八幡神社。なかなかいい社殿です。 5叉路の道からはこんなふう。謎多き富士塚のある一帯は、農村の風景が続いていました。。。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
だいぶ前になってしまいましたが、和光市3富士塚をめぐるツアーは、和光市の旧川越街道を歩くルートでもありました。
地図は、まだ「東京外環自動車道」も「笹目通り=主要地方道練馬/川口線」も「バイパス=254号線」もなかった昭和12年当時のもの。右端から上にかけて「東武鉄道」が走っています。今の東武東上線ですね。和光市駅は地図からはみ出ています。 実はこのあたり、現在は「川越街道」と名のつく道が3つあって、とても複雑です。地図のほぼ中央を通っている道に川越街道と記されていますが、これは県道109号のことです。一般的にはこれが「旧川越街道」と呼ばれています。後にできた254号線(右下の東崎橋から南西に向かって枝分かれして西に続く道ができた)のほうを「川越街道」と呼ぶことが多いからです。では、もうひとつの川越街道はどこかというと、くらやみ坂や大坂を通る(地図の中でピンクのドットが通っている)「旧川越街道」よりも古い、くねくねした道です。(ドットは散策コースのみ) この道は、白子宿(白子富士の東側)を通っているので、本当はこれが「旧川越街道」で、江戸時代の川越街道を指すわけです。まあ、とにかくややこしい。地元の方も、会話の中で間違えるほどです。 ↓現在はこうです。ややこしや〜。 その旧川越街道が、左端から下って川越街道と交わるまでは「引又道」、その先、くらやみ坂あたりまでは「浅久保通り」と呼ばれます。 引又道道標(庚申塔)は、旧川越街道と川越街道が交叉する地点にあり、 それぞれ「川越道」「引又道」と読めます。これが見つからない時は角の酒屋さんに聞くといいです。 「いやぁ。庚申塔は数メートル動かしちゃったんだよ」 「旧道?右へ行ってごらん。浅久保通りって書いてある」 「今は川越街道と言ったら254のことだね。車社会だから」 おじさんが熱弁をふるって教えてくれます。特にくらやみ坂のこと。 「昔はホントに真っ暗だったんだからぁ〜。傘を盗まれても全くわからないさ」 ↓今はこんなに見通しがいいですが。 くらやみ坂の手前には、馬頭観音や代官屋敷などの見どころや、浅久保富士がありますが、笹目通りを越えて大坂に入ると、これが感動的。急な坂を下るのです。 昼間だというのに、妖怪が待っていそうな、しっとりした闇の気配。怖くはないけど、谷へとずんずん降りていくフシギな感覚はなかなかいいです。 道が舗装されているとはいえ、土地から立ちのぼる「水」の気配が漂います。民家からもきれいな水が。 酒屋のおじさんも言っていました。 「白子ってのは、水が湧き出ているっていう意味なんだよ」 大坂を下りきると白子宿に入ります。 こんなカッコイイ魚屋さんは白子富士のすぐ近く。 そうだった!そうだった!下新倉富士のことを忘れていました。 白子富士のある熊野神社を北に通り抜け、北上したのでした。 長くなってしまったので。。。つづく。(だいぶ、はしょったのになぁ) ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
富士塚「に」ある鳥居に掲げられた扁額には、時々こんな装飾がほどこされています。(富士塚「が」入っている○○神社の鳥居ではなく、富士塚「を」富士山の神様として祀った神社の鳥居のことです。通常、富士塚に一番近い鳥居ですね)
他にもあったかもしれませんが、これらの額縁には、連続した富士山が表現されています。美しいですね♪ 私は、ただの富士塚めぐり(たくさんの富士塚をまわって「制覇」したと満足すること)はあまり興味がなく、できるかぎり、造った人(信仰のあった人や職人)の気持ちをくみ取ることが好きです。 昔の人は、こうした些細なところに遊び心や美を表現した、いいものを残しています。私は、よく「造形的な面白さを味わっています」と言うのですが、富士塚の構造だけでなくこういう部分に着目することが、当時の庶民の気持ちや生活背景がわかって面白いと思っているのです。 扁額の装飾などは、刻まれた文字に比べればおそらく、(富士山信仰に関する)歴史的学術的な視点からは重要でないかもしれません。でも私から見れば、こういうところこそ「富士山愛」を感じる興味深い部分であります。 なぜならば、こんな装飾をほどこすということは、シンプルな扁額に比べたらとても手間のかかることなのですから。(費用もね) 画像中央の扁額の下新倉富士は、行ってみると「あれ?こんなものですか?」と言われそうなほど、富士塚自体は登拝には物足らなさを感じるかもしれません。でも、実はなかなか味わいのある素晴らしい富士塚です。 つづく。。。
子供の頃からいろんな鉱物が好きでした。
夏休みの理科の自由研究で学校代表に選ばれて、他校の生徒と一緒に研究発表(その時は、ある植物について)をしたことがありました。参加記念としていただいた「鉱物標本」がとても綺麗で、すっかり魅せられてしまいました。それ以来、石が好きです。いやもっと前からかな? 家族旅行でどこかへ行っても私は、かわいいみやげ物よりその土地の化石や名物石を買うような子供でした(笑)。高価なものは買えないけれど、鍾乳石の輪切りとか、叩くと金属音のする石とか、自然の形を生かした硯石とか、魚の化石とか、色んな色の石のセットとかわくわくしながら買ったものです。。。その石のセットは(どこで買ったか記憶にないですが)、ジュエリーにならなかったような鉱物のジャンクで、その中にひとつお気に入りがありました。縞のある褐色の石で、ちょうど真ん中にあった赤い丸が、木星の「大赤斑」そっくりだったので、その直径3cmにも満たない小さな石を「ジュピター」と名づけて大事にしていました。 そんなバックグラウンドがあったからでしょう。(日本でブームになるずっと前ですが)米国でミネラルショーに出かけたりしました。今でも、鉱物を売っている店を通りかかると覗きます♪ ホリ鉱物科学研究所からも、数年前までDMが届いていましたが、パワーストーンを仕入れに来る人が増えてから行かなくなってしまいました〜。 ホリミネラルの鉱物に接する時、私は登山者になっていました。小さくなった自分が(鉱物の)岩山をよじ登っているのを妄想したり、その形を愛でたり、結晶のメカニズムに驚嘆したり。。。スピリチュアルなことは一切考えていませんでした。鉱物ですから、ごく自然に地球や宇宙に想いをはせることにはなりますが、科学や文学寄りの興味が強くなりますから。 とはいえ、私も米国でのニューエイジに興味を持っていたり、水晶を集めていたほど(ほとんど人にあげてしまったけど)だったので、昔からパワーストーンは大好きです。詳しくはないし、たくさんは持っていないけれど、それぞれの石の種類や用途に合わせて使うとよいとのことなので、いくつかは日常にあります。 身につけるもの以外では、このローズクォーツ(紅水晶)。 一般的には恋愛運アップとして知られていますが、私はこの石の癒しパワーにお世話になっています。人間ですから、日々たくさんのストレス、不安、苛立ちをかかえますよね。頑張りすぎてくたくたになったり、虚しさを感じることもしょっちゅう。でも、一日の終わりにこの石を胸にあてて「ありがとう」と言ってみる。するとあらフシギ。精神的にラクになります。「おつかれアタシ。くよくよすんな」みたいな(笑)。(その時聴いているのは、いつもネイティブアメリカンのフルートですが)おかげでリラックスできて、不眠に悩まされることはまずないです。生きていくにはいろんなことを抱えますから、日々、工夫したヒーリングは大切だと思います。 ところが。この習慣は数年来のことですが、最近この形に気づいたことがあったのです。 あれれ?池袋富士の烏帽子岩に似てるんでない? というか、烏帽子型だったのだ〜♪ 先日、富士塚によくある烏帽子岩の説明をするため、レクチャー用に紙製の烏帽子岩を作った時、烏帽子の形を模索していて、ふと気づいたのでした! そう言えば、烏帽子岩は富士山の7合5勺の位置。私の体が富士山だとしたら、その石を当てる胸(私はネガティブな気持ちは左胸に溜まりやすいので、そこにしか当てません)は、体の7合5勺の位置です♪ 面白いですね〜。 ちなみに、池袋富士は年1回、7月1日のお山開きの午後だけに登拝できます。 当日はこんな光景ですよ。一緒に行かれる方、お楽しみにね〜♪
千葉地区2回目は、予定を変更してミニミニプライベートさんぽの旅となりました。
当初のツアーは、流山にある流山富士と松戸にある根本富士が目的地だったのですが、参加予定の方が行けなくなったことで急遽ツアーを返上し、松戸在住の友人と散策いたしました♪ 「おそらく今までになく巨大な富士塚だよ♪」 「わーい♪」 こんな日も楽しいものです♪ 感謝♪ 松戸は宿場町でしたから、やはりたくさんの富士塚が点在しています。友人は、去年のツアーで根本富士も松戸富士もそして流山富士も登拝の経験がありましたから、今回は小山富士を案内しながら、てくてく散歩を楽しみました。 松戸駅を背に南下し、松戸神社の境内を通り抜けて、歩きます。古いお寺にふと立ち止まり、ゆるやかに流れる時間を味わったり、 町を流れる坂川にそっておさんぽ。こんな古くてシャレた橋(明治時代に造られた「小山樋門」)なんかもあって、川沿いの散策はいいです♪ 角町あたりから川は西に曲がるので、散歩コースは川から離れて常磐線の線路近くまで戻ります。 「ちょっと那覇の裏道っぽいね〜」などと話しながら、花々が香る細い坂道をくねくね下りると、 大きな木造の建物があって、 中は市場のよう。 「キャベツ富士」がふたつ見えました〜♪ ほどなくして、線路をまたがる歩道橋を渡ると、正面に大きな森が待ち受けます。 線路沿いにも民家にも、花があふれていました。ホントにこの季節はいいですね♪ 小山富士のある浅間神社は目の前ですが、ちょっと寄り道します。 この渦巻きは。。。蛇です。 浅間神社(と線路の間)にある、小さな弁財天?(名前は忘れました)の社に並んであります。ここにはこれらしかなかったですが、松戸市役所に隣接する池田弁財天へ行くと、 ↑その蛇の数に圧倒されますよ〜! かつて平潟遊廓の遊女が願かけをしたという池田弁財天は、ちょっとオドロオドロな雰囲気ですが、 ↓この中は、湧き水がたっぷり流れ、清々しい一角でした。紅葉の季節に訪れると。。。 こんなにキレイ! そこを出て、ちょっと南から浅間神社をながめます。 こんなにこんもりとした山です。現在、神楽殿は修復中。 以前来た時は通り過ぎていましたが、立派な下浅間宮でした。登山道の右側にあります。駒込の下浅間社を思い出しました。富士塚にはよく「小室(おむろ)浅間」と刻まれた石碑がありますが、それと同じかと思います。(小室浅間=通常「下浅間」と呼ばれる富士山下宮小室浅間神社) お百度参りか、健康のためか、おひとりで何度もお参りしている方がいました。 長くなっちゃったので、あとは、過去の小山富士の記事へ。。。 オマケ♪ その後、2駅電車に乗って、亀有まで行ってみました。古い商店街のお店に入り、 ザーサイの塩漬け(珍しい!)をいただきました。 奄美の黒糖焼酎によく合って美味でした♪ 亀有は初めて降りましたが、商店街で売ってた野菜にビックリ!安くて新鮮だったので、山のように買って帰りました。いい旅の一日でした♪ ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
ソフトが不調だと思ったら今度はハードが不調で、しばらく途方にくれておりました。再起動を繰り返しながら、しかたがないのでその間、オブジェに手を入れたりしていました。
やっと修復できたら日付が変わっています。まあ、できるところから。 たいぶ日がたってしまいましたが、先日の「荒幡富士」。 昨年は本の取材でお話をうかがい、今年2月にはNHKの番組に一緒に出ていただき、お世話になりっぱなしの荒幡富士保存会会長の金子さんにこの日もお世話になりました。いきものふれあいセンターのスタッフや地元の方、近隣からいらした方と一緒に登拝いたしました。 この季節、ツツジとヤマツツジがとても美しかったです。 塚に関する新しいお話もた〜くさん聞けました。(くわしくは後日) 本当にありがとうございました。 頂上では、展望図の看板が新しくなっていました。そう言えば、2月、番組の収録に訪れた際、「これはもう10年くらい経っていて古いんですよ。もう変えなくちゃ」とおっしゃっていました。収録の直後に作り変えたのだそうです。 看板の下のところにつけられているのが「彩の国・景観賞2008」のプレート。2月12日に金子さんたち保存会と地域の方たちが埼玉県知事から表彰されました。 3月、受賞に関する新聞記事をいただいていたので、ブログで紹介したいと思っていました。(この他にも記事はありますが) 今年度で22回目を迎えたこの賞は、「たてもの・まちなみ部門」のほか、住民が主体となったまちづくり活動や、良好な景観を守り育てる活動が対象となる「心のうるおい部門」があり、保存会が中心となって続けている「荒幡富士の清掃活動」が、後者の部門で受賞されました。おめでとうございます。 でも、年に2回、保存会と地域ボランティアが荒幡富士を清掃するのは知っていましたが、おそらくそれだけではこんなに綺麗には保てないと思います。この富士山を愛し、いつも手入れを怠らない方たちの努力があってこそこんなに清々しい場所となったのでしょう。 清掃するということは「お浄め」でもあり、そこに神様も降りて来る。立派な聖地ですね。山は有り難い姿で訪れる人を迎え、そこに立てば人も気持ちいいと感じる。(私が好きな竹富島が「神高い」のも、島の人が早朝から道を掃き浄めたりして、清掃を続けているからだと気づきました♪) さて、昨日、金子さんから連絡がありました。今年の夏の清掃には、子供たちのボランティアが増え、なんと総勢200人でやることになったそうです。また、最近荒幡富士が注目されていて、訪れる人も増えているとのことです。本当に有り難いことですね。私も嬉しいと同時に、地域の方たちと交流を持てることに、心から感謝しております。 ちなみに清掃日は6月14日です。登拝の状況はよくわかりませんが、その日を狙って行かれるのもいいかもしれませんね。いつもとは違うお山の姿を感じられるかもしれません。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ |
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プロフィール
HN:
芙蓉庵 (Yoko Arisaka)
性別:
女性
自己紹介:
▼▼▼【富士塚】とは▼▼▼
………………………………… 富士山に登りたくても登れな い人たちの為に、江戸時代に 関東各地に造られた「人造富 士山」のこと▲です。富士山 を信仰する▲▲▲富士講によ るもので▲▲▲▲▲したが、 地元に▲▲▲▲▲▲▲ミニチ ュア▲▲▲▲▲▲▲▲▲の富 士山が出来たことで、多くの 人が登山でき、大流行しまし た。民衆のパワーですね♪♪ 富士山の溶岩をのせ、一合目 から頂上まで登れるようにな っています。意外なところに ひっそりたたずんでますよ。 ………………………………… ▼▼▼【芙蓉庵】とは▼▼▼ ………………………………… 美しい作品も好きだけど、コ ンセプトありきで表現するこ とに喜びを感じるビジュツ家。 表現形態はこだわりません。 現在、富士塚のコンセプトに インスパイアされ、色々な媒 体で表現。著書の【ご近所富 士山の謎】【富士塚ゆる散歩】 も、私にとっては作品です。 なぜ富士塚か……それは、海 外生活での体験から。詳しく は本のあとがきに記してあり ます。 ★★★★★★★★★★★★★ お問い合わせ、ご連絡は↓ y♡k♡◆ris◆k◆.◆rtist★gm◆il.c♡m (♡をoに◆をaに★を@に変えて 入力して下さい) ★★★★★★★★★★★★★ 掲載の写真・イラスト・文章等の 無断使用・転載は御遠慮下さい ★★★★★★★★★★★★★
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