▲「富士塚」だけで日記が書けます♪▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
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小御嶽大神の裏には、昭和9年の文字があり、立派に飾りつけされていました。
あれ?これは5合目にあるはず、と思われますか?(笑)。



これは大澤くずれでしょう。あれあれあれ?



もう出しちゃおう。押切富士はこんなにぺったんこ!



でも、ただの石碑タイプの富士塚じゃあなかった。
ちゃんと登山気分が味わえるよくできた作りでありました。

検証はつづく。。。



これが亀岩と思うと、↓ほら猫実富士の亀岩によく似ている。



参照記事はこんな感じで。。。

リアル亀岩
大泉富士の亀
今井富士の亀
猫実富士の亀
五井富士の亀
亀岩大神

やっぱり亀かな。。。

稲荷神社の中に「押切浅間神社」あり。

鳥居が再建されたのは昭和50年代と新しいのですが、講自体は結構ふるいっ。



山不二講はひとつ前の「本行徳富士」と同じです。で、そこの石碑で見つけ気になっていたのが「高瀬」の文字。何だろうと思っていましたが、



ここで納得。高瀬元講の高瀬とは、この六代目先達の高瀬長左エ門さんのことだった。



さて、反対側には「小御嶽」が。

もうちょっとパーツ別に迫ってみます。。。


旧街道をてくてくてくてく。

やがて地理感がついてくる。

地図よりも、自分の感覚を信じて路地を選ぶと間違わない。

神社の入り口は異境へのいざない。この日も突然吸い込まれた。



しかし、富士塚はたいてい神社の奥にあります。

メインの神社に遠慮しながらひっそりと待っています。

だからこそ、たどり着いた時のドキドキ感。ワクワク感。

この写真からそれがわかるでしょうか?



「果たしてここにあるだろうか。。。」と。


旧道は歩くと楽しいけど、車がブンブン!どうにかならないかね〜。
店や神社が楽しいので飽きないケド。。。本塩、関ケ島、伊勢宿、押切……と歩く。一応神社を見ると富士塚あるやとチェックします。






狛犬コレクションに入れたい表情豊かなこの子たちは文化?年生まれ。


富士塚の裏側に背の低い倉庫があるため塚の下半分は隠れていますが、雰囲気はよくわかりますね。どことなく凛とした後ろ姿(笑)。



頂上の祠(奥宮)背面には昭和8年とある。塚自体はもっと古いみたいだけど……調べる手だてがありません。ご近所のお年寄りをつかまえて聞いてみようかとも思いましたが、こういう時にかぎって人が通らない。



てなわけでまた街道を下ることに。。。
鳥居の向こう側、正面には大ぶりの玉石を使った登山道があります。その左足元に、こんな綺麗な赤い碑がありました。富士塚ができた後にも奉納は何度かされていたのでしょう。



そして右側には、欠真間(かけまま)の元講(への?)石碑。すぐ隣の欠真間もかつては塩田地帯だったようです。大津波で真間村の一部が欠けて流され、その土砂でできた村と言われています。



そのちょっと右上には分厚い碑。行徳町と刻まれていました。だいたい3合目の高さ。



そして、小さな塚ながらお中道がしっかり作られていて、真上から見て3時の位置にこれ。



小御嶽神の石碑。これはかなりデカい。中道の上に建っているけれど人が歩く幅はあり、ホントに登って歩いてみたかった〜。



その横にこの木が。富士塚が出来てから大きく育ってしまったようで、そのうちボク石も砕いてしまうでしょう。まあ、そうなったらしかたないけど。よく見ると蝉の抜け殻が山のように残っていました。富士塚は時折、小さな森の役目もしているのですよ(笑)。いろんな生き物がいてね。
市川市本行徳にある富士塚です。行徳と名のつくところに富士塚はこれしかありませんから「行徳富士」と呼んでもでもよいのですが、実は他に、「行徳富士」と呼ばれるものが存在するのでそれは避けます。(そちらは地域で問題になっていた産業廃棄残土のボタ山!)

そもそも行徳は、中世にこの地域の開発に尽力した修験者、金海法印の敬称でした。この人が伊勢内宮の土砂を運んだとかの記録もあるようで、ここにも豊受大神を祭った豊受神社があります。ちなみに伊勢宿は伊勢参りの船が出たところ。

成田詣でや伊勢詣で、またしょっぱい産業(塩)で賑わう街道沿いに富士塚があったのはあまり語られていませんね。この講は「山不二講」といって、船橋や浦安の富士塚にも多く見られます。



千葉県に富士講が入って来たルートはおおよそ3つあるようで、(以前ちょっとふれましたが)市川市あたりの富士講は埼玉から江戸川経由で来たものと、江戸東部から伝わったものと、講によって違う気もいたします。「山玉講」は深川からなんですが、「山不二講」は内陸にもあるわけで。(浦安には両講あります) とにかく「山不二講」、大きいようです。

つづく。。。


立派な八幡宮の鳥居をくぐり、本殿に挨拶した後、裏手に回ってみます。



公園のように遊具があるスペースの端に、



こじんまりした富士塚がありました。

ちゃんと祀られていない荒れた富士塚に見えますが、実際はそんなことはありません。確かにフェンスに囲まれていて、うち捨てられたような扱いです。でも、しばらくひだまりの中、塚のそばにいたら、とてもくつろげました。なかなか気持ちのいい一隅です。

立て看板は「登るな」でなく「タバコすてるな」となっている。登るなじゃないからおとがめはナシ(笑)!子供たちがいなかったら門扉を開けて登っていたのですが。残念。すべり台の上に昇ってみました。

では、近づいてみます。実は立派な塚だったのですよ。
最近、日本橋人形町や小網町、蠣殻町あたりをうろついていました。あ、富士塚に関係なくです。でもなぜか、表通りよりも裏の、ある一角に足が向いていました。足の向くまま気の向くまま……? それでも路上観察で出会うものは、おそらく偶然ではありません。この時もこんな看板に出会っていました。



この時は「行徳かあ。日本橋と行徳は縁があったんだー!でもまあ、そのうちね」という程度で忘れていました。

ところが富士塚求めて散歩に出た日、「つながった」のでした。



はい。
私が歩いた旧街道というのは「行徳街道」です。(map上、旧江戸川の北側が東京都江戸川区となります)
妙典駅下車の後、旧江戸川を目指し直角に歩き、行徳街道にヒットしたら左折。行徳方向へ歩いたのでした。(帰路はそのまま家まで徒歩ね♪)

↓ちょっとトリビアってことで。

「行徳は古くから塩の産地として知られ、この塩を江戸に運ぶために開発された航路も、やがては人や物資の輸送に使われるようになった。この航路の独占権を得たのが本行徳村で寛永9年(1632年)にこの場所へ船着場を設け、新河岸とよんだ。この航路へ就航した船数は当初16隻であったが寛文11年には53隻となり嘉永年間(1848〜54)には62隻に増えた。
これらの船は明け六つ(午前6時)から暮れ六つ(午後6時)まで江戸小網町からここ行徳新河岸の間を往復したので行徳船と名づけられ、その間3皇8丁(12.6キロ)という長い距離を渡し船のように就航したところから、長渡船ともいわれた。
行徳船を利用した人達には、松尾芭蕉、十返舎一九、小林一茶、渡辺崋山、大原幽学など歴史上、または文学史上に著名な人物も多く、特に文化、文政(1804〜30)の頃からは、行徳を訪れる文人墨客や、当時ますます盛んになってきた成田山参詣の講中たちによって、船着場は非常に賑わいを極めたのである」

街道沿いのふたつの富士塚も大事ですが、こんな学習がたまらなく楽しいですよ。
行徳は隣町ながら(だからこそかな?)町の歴史など何も知りませんでした。中古車販売の店が多いとか、ラーメン屋がしのぎを削っているくらいしかの印象しかない(笑)。ただ、何の用だったか覚えていないけれど、昼間、タクシーで行徳を走ったことがあり、その時あまりの寺の多さに驚きました。ドライバーはちょっと得意げに「寺町だからぁね〜♪」

日本橋小網町で「行徳」の名を見つけたのは、早く行けってことだったのかしら(笑)。



おまけ。「湊」は「港」のことですね。近くに「本塩」とか「伊勢宿」という地名もあります。

ちょっと引っぱりすぎでした。では、行徳街道沿いの富士塚へご案内〜♪



「八幡宮」の入り口から。




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美しい作品も好きだけど、コ
ンセプトありきで表現するこ
とに喜びを感じるビジュツ家。
表現形態はこだわりません。
現在、富士塚のコンセプトに
インスパイアされ、色々な媒
体で表現。著書の【ご近所富
士山の謎】【富士塚ゆる散歩】
も、私にとっては作品です。
なぜ富士塚か……それは、海
外生活での体験から。詳しく
は本のあとがきに記してあり
ます。

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