▲「富士塚」だけで日記が書けます♪▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
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まだまだいろいろやることがあるのですが、嬉しいことがひとつ。



富士吉田のK様から、行衣が届きました♪ 感謝です。

当日私もこれを着て、御朱印を捺していただくことにしました。

詳しくはまた。。。
書くべき大事なことはたくさんあるのに、暑さに負け、頭がボ〜っとしてしまう。

今夜はかなり暑いです。深夜になっても涼風が吹きません。
今年はまだクーラーをつけてないけれど、さすがにしんどくなってきました。
でも、今夜はもう寝てしまおう。 忙しい日々は、ムリしてはダメです。



そう言えば、富士塚の頂上は風が吹いていました。 夕暮れの品川富士。



左から、赤い電車がフレームに入って来ました。



三浦半島方面に向かう、京急です。

近いうち、またここへ登拝することになりました♪
2週間後には、富士吉田の火祭りツアーに出かけます。
富士塚ツアーの番外編でもあるこの旅には、私と御縁のある方たちと一緒に、8名で参ります。

参加者の方たちは、皆、富士塚/富士山好きですが、「富士山と熊野の両方が好き」の方も複数いらっしゃいます。

私自身、富士山信仰と熊野信仰は切り離せないと思っている(熊野信仰がなければ、富士講は盛り上がらなかったと)ので、今回そんな方たちと御一緒するのはとても楽しみなことです。

さて、(富士山信仰と熊野信仰の関係についてはまたの機会に書くとして)熊野で思い出すのが、南方熊楠です。



熊楠はさまざまなことについて書き残していますが、「南方随筆」の中で、少しだけ富士講にもふれています。(確かに関西にも富士講はあったけれど、関東のそれとは異なります。また、「富士垢離」という修行をする人たちもいました)



熊楠はそのへんの詳細は知らないものの、ちょっと気になる箇所がありました(ピンクに強調した部分)。

「上方に古来富士登山の団体はなかった」としながらも「……あるいは以前にも富士講風のものがあったのかと思う」と書いています。そう思うのは、自分の身内に富士山信仰を持った人物(それゆえか長寿であった)がいたからと。

これはちょっと面白いです。その人物、どんな人だったのでしょうね〜♪

ところで、昨年、私は初めて熊野詣をしました。かねてから憧れだった熊野ではありましたが、自分にとっても意外な縁があり、とても驚きました。

旅の案内人の母(和歌山生まれ)が、幼少の頃一時期住んでいた田辺。そこに熊楠がいたのでした。

田辺では、母の父つまり私の祖父が、田辺中学校(今の高等学校)の校長先生をしていました。そして熊楠と懇意にしていたそうです。(熊楠のほうがず〜っと年上だけど)

南方家がご近所だったこともあり、小学生(低学年)だった母自身も、いろいろ記憶に残っているとのこと。昨年は、当時の思い出話と共に、田辺市内を案内されました。

熊野古道等の様子は、このカテゴリーの中に。

ちなみに、熊楠が世を去った後、祖父は熊楠が卒業した学校(和歌山中学、今の桐蔭高等学校)の校長になりました。これも御縁があると思わざるをえません。



ホント、縁をたぐりよせるといろんなことが有り難いと思うこの頃です。
富士塚の清掃が済むと、御三幅(ごさんぷく)の取りつけに入ります。
こうして屋外に設置するのはとても珍しく、またその光景も素晴らしいです。



細い笹竹につけられた紐に、3枚の掛軸を結びます。
真ん中の方が、うっかり掛軸の一部である「風帯」を結んでしまいました。



できました。美しい〜♪



お山とのバランスもいいですね。

「雨が降ったら集会所でやるんでしょうね?」
「でもね、いつもこれをやる時は晴れてくるんですよ♪」

確かに、日射しが戻ってきました。フシギです〜!


皆さんが拝みます。



そして、直会にうつります。



山ふところに包まれて、宴が続きます。実にいい光景であります。

オレンジ色の花が、山に彩りを添えています。
今年ずいぶん増えた「キツネノカミソリ」です。
富士塚は、訪れるたびにあらたな発見がありますが、こうして地元の方たちがいらっしゃると、いくら登拝しても気づかないことや先人の文献にも登場しない情報が得られます。

例えば、昨年は、この塚の西側に防空壕が造られていた(御胎内とは別物)ことを教えていただきましたが、今年は、東側に「半鐘跡」があるのを知りました。

「半鐘(はんしょう)」とは小さい釣鐘で、サイレンや防災無線がなかった頃に造られた、災害や危険を地域住民に知らせるためのものです。



大泉富士の東側斜面に、石段がほどこされています(登山道ではなく、斜面補強のため。私が子供の頃はよくここから登っていましたが)。その途中に朽ちた木製の柱があります。

「たぶん、それだと思うよ。半鐘がかかっていた柱だね」



「これですね〜! 柱に太い鉄の釘が刺さっています!」
「じゃあ、それだよ♪ このへんでこの山が一番高いところだからね」



頂上から南を向いた図。確かに高いでしょう?

大泉富士のラフマップはこちら↓(ご近所富士山のイラストより細かいですよ♪)



つづく。。。
たぶん一番遅いお山開きです。

芭蕉の葉の間に富士塚の頂上が見えます!

8月1日のお山開きは、毎年変わることなく行なわれます。
場所は、練馬区の端っこの八坂神社。和光市に近いです。バスで向かいます。



午後1時頃に氏子さんたちが集まります。



モミジマークが貼られた車でいらっしゃるけど、バリバリ乗りまわしている方たちです。



あっれ〜? もうお山がすっきりしてる? 笹竹も組まれていますね。



「先週、半分は掃除したんだよ。ここで盆踊りがあったからね♪ 今日はラクだよ」
塚の背後も丁寧に刈り込みます。



では、お邪魔にならぬようちょこっと歩きましょう。これは正面にある猿の陰刻。



中腹には、聖徳太子の石碑もありますね。
聖徳太子の碑は、西宝珠花富士(春日部市)とかでも見られます。



「あれ? 今日は講元がいらっしゃいませんね?」
「ヒロちゃんか? あぁ、今朝仕事が入って出かけちゃったんだよ」
「この碑のM氏って講元のお祖父様ですよね?」
「そうそう。リョウちゃんの父さんさ〜」

スゴイです。ほんのちょっと前のご先祖様が、バリバリの富士講行者でした。

つづく。。。
8月15日号のBRUTUS。



祭り多きこの時期に出たこの特集は、なかなかいい。
気になりつつ調べそびれていたモロモロが出ていて、有り難くもありました。
連綿と続いている奇妙な風習、原初のメンタリティー、愛おしい風土。。。やはりニッポンは面白い。
広く浅くではありますが、紙面には、興味を引き出してくれるきっかけがちりばめられています。



富士山信仰に関する記事は概要ですが、こうしてビジュアルに訴える遺物は記憶に残ります。富士山信仰は、御神体である富士山そのものよりも、こうしてカタチに残した庶民の発想が面白い。美しいですし。
この見開きにある3つのものたちは、私にとっても思い入れがあり、それぞれまねて造ったこともあります。

右にあるコノハナ像は、昔NYで写真を見て仰天したことを覚えています。これを見たくて帰国したようなものです(笑)。



富士山を知るために読むべき16冊。



嬉しいです。私の本も載ってました♪
貞秀の地図の正確さは、「空飛ぶ絵師」の異名が表わすように本当に空から見下ろしたのではないかと思えるほどですが、地上の人々の描写も見事なことから、低空飛行をする鳥の目をも持ち合わせている。つまり、高度を自在に操るようなユニークな視点が特徴です。

一般的に知られているのは、↓この類いの絵や、

『東海道勝景』文久3年(1863年)

富士山に関しては、↓

『大日本富士山絶頂之図』安政4年(1857年)

なんかがありますが、私が貞秀を気に入っているのは、絵のうまさや地図の正確さよりも、「発想の大胆さ」と「抽象的な側面」を持っている点です。

先の立体作品『富士山真景全図』にグッときて、いろいろ調べていたら、こんなものに出くわしました。



『甲斐國全図』です。富士山を含めた山々がぐるりとまわり込み、とても面白い作品になっています。地図でありながら、まるで半抽象のコラージュのよう。やはりこの人の感性はすごいと思います。

もっと調べたら、なんと地球まで描いておりました。

『萬國地球分圖』

余談ですが、『富士山真景全図』に関していろいろお聞きしようと、神奈川県立歴史博物館の学芸員の方にお会いした時、開口一番、逆に聞かれたことがあります。
「貞秀が上空からの絵を描いたのはとても不思議なんですが、絵を描く側としては、どのようにお思いでしょうか?」
私は曖昧に答えましたが、密かに頭をよぎったことは。。。

「本当に飛んだのだ」ということ。もちろん「意識」を飛ばしたという意味ですが。ちょっとオカルティックに聞こえてしまいますが、表現者にとってはこれは可能なのです。極限まで集中すると、意識は飛ばせる。そして、見て来たものを再現すればいいのです。ある種の超能力でしょう。私もちょっとあるかもね?(笑)2度ほど飛んだ経験ありますから。。。(笑)
2つ前の五雲亭貞秀作『富士山真景全図』のつづきです。



仕掛けのある胎内の部分。(作者名は「玉蘭斎貞秀」)
これを見て思い出すのは。。。



『富士山胎内巡之図』。
富士講に関する本にしばしば登場しています。「富士講の歴史」(岩科小一郎著)の中では、この図の作者名を、玉蘭斎貞秀と紹介していますが、実際、絵をよく見ると「五雲亭貞秀」の文字が読めます。

五雲亭貞秀・玉蘭斎貞秀・玉雲斎貞秀・歌川貞秀と、いくつもの号を持っていた貞秀は、さらにもうひとつの名がありました。地図作家名の場合は『橋本玉蘭斎』という名でした。
(ちなみに、貞秀の本名は「橋本兼次郎」です)

地理的題材を多く用いた浮世絵師でした。
富士登山も実際にしていて、嘉永年間に5〜6回登ったことがわかっています。富士山絵に、風が心地よかった等、書いています。

それにしては、富士山信仰の描写が多い。この人も富士講に入っていたのでしょうか。それとも、制作のため登山するうちに、富士講と交流を持ったのでしょうか。

博物館の学芸員にたずねたら、「そこまではわかりませんが、それほど当時は富士山信仰が一般的だったのでしょうね」。

個人的に登山そのものが好きだったのかもしれません。学芸員さん個人所有の資料『橋本玉蘭識』を見せていただきましたところ、登山のスケッチや記録が細かくて、大変興味深かったです。

いずれにしろ、この『富士山真景全図』は、富士山信仰の信者のために制作したと思われます。版画ですから数多く刷って、配ったのでしょう。実物は、旧家から博物館に寄贈されたものですが、よくもまあ立体にせず、平面のままで保管していたなあ、と思いました。

つづく。。。
貞秀について書いている途中ですが、割り込み記事です。



本日、新宿歴史博物館の展示予告がようやくアップされました。

「富士講の世界」
9月5日からです。ぜひ行ってみましょう〜!
(2月の首都圏ネットワークの際、博物館から「番組内でどうしても告知してほしい」と言われたそうですので、楽しみにしておりました)

くわしくはコチラのHPから


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HN:
芙蓉庵 (Yoko Arisaka)
性別:
女性
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富士山に登りたくても登れな
い人たちの為に、江戸時代に
関東各地に造られた「人造富
士山」のこと▲です。富士山
を信仰する▲▲▲富士講によ
るもので▲▲▲▲▲したが、
地元に▲▲▲▲▲▲▲ミニチ
ュア▲▲▲▲▲▲▲▲▲の富
士山が出来たことで、多くの
人が登山でき、大流行しまし
た。民衆のパワーですね♪♪
富士山の溶岩をのせ、一合目
から頂上まで登れるようにな
っています。意外なところに
ひっそりたたずんでますよ。
…………………………………

▼▼▼【芙蓉庵】とは▼▼▼
…………………………………
美しい作品も好きだけど、コ
ンセプトありきで表現するこ
とに喜びを感じるビジュツ家。
表現形態はこだわりません。
現在、富士塚のコンセプトに
インスパイアされ、色々な媒
体で表現。著書の【ご近所富
士山の謎】【富士塚ゆる散歩】
も、私にとっては作品です。
なぜ富士塚か……それは、海
外生活での体験から。詳しく
は本のあとがきに記してあり
ます。

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