▲「富士塚」だけで日記が書けます♪▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
「高田ふじまつり」は、縁日の屋台が出てとても楽しい。でも店を開いてるのは、いわゆるテキヤの人達ではなく地元住民、つまり水稲荷神社の氏子たちです。背中に「冨士下」とプリントされたお揃いのTシャツを着ていました。以前から気になっていたので、私はその文字の意味を聞いてみました。

すると氏子のおひとりが、氷の入った簡易クーラーボックスの蓋にペンで地図を書き始めました。
「えっとね。。。移築される前の富士塚は、水稲荷と一緒にこういうふうに。。。」



私も旧高田富士が早稲田大学に隣接した水稲荷神社の境内にあったことを知っていますが、地元の方から当時のことを聞くのは初めてでした。

その人は、まわりの人にも声をかける。
「なあ、前のお富士さんて、こんな形だったよな?」
「そうそう。L字型だったわね。お参りするのはこっちから。。。」
「L字って???」

突然、ボールペンは発泡スチロールの上で滑って書けなくなってしまった。
「そうだ。昔のことはあすこに座っているKさんに聞くといいですよ。よく知ってます。89歳だもの♪」

長老のKさんにご挨拶して、お話をうかがいました。



Kさんは、話をしながらメモ帳の1枚にスラスラと書いてくれました。
「穴八幡の反対側、早稲田通りから直角に入るところが参道です」
「それはもしかして早稲田大学の西門ですか?」
「そうです。大学の中に入る細い道があったでしょう?今は駐輪場になってるけど、あれが昔の参道です」

うかつでした。そこらへんの昔の地図は何度も見ていたのに、水稲荷の参道のことなど気にとめなかったもの。西門も駐輪場も知っていて、ましてそこが「ちょっと異質な空間」だったことも感じていたのに、なるほどそこが参道だったとは。納得しながら、ちょっと感動。

「北側にカーサがあって、参道を行くと社務所と本殿。富士山はその裏です」
「ふむふむ」
「私たち『冨士下』の者は、こっちの坂道から神社に入ったけどね。冨士下とは、富士山の下つまり下戸塚村のあたりのことです」
「なるほど〜。たしかに宝泉寺のところから坂になって、下にずっと続いてますよね」

Kさんは記憶がさらに蘇ってきたらしく、別の紙に新しく書いてくれました。



もっと広範囲に書きたかったようです。
「穴八幡がここでしょ。こっち行くと近衛騎兵。。。水稲荷はやっぱりこうかな。入口は北側にもあって。。。」
「あ。L字型だ!あちらの皆さんが富士山がL字型だっておっしゃってて」
「ああ。浅間神社の敷地がね。富士山はここんとこ」

こんな調子で、昔話はつきませんでした。
面白かったのは、早稲田大学を含む北側の一帯を「山」と呼んでいたことです。そう言えば、十条の富士講の御年配も、地域の説明をするのに「海」と言ったり「山」と言ったりしていたっけ。彼らには縄文地図が頭に入っているのだろうか。



念のため、アースダイバー掲載のマップを見てみたら、やはり早稲田大学一帯は陸で、旧高田富士は崖の上。冨士下はむろん海でした。(色文字は私による)

「昔の高田富士はですね、ちょっと土台になったところに盛り土をしたんですよ」
ちょっと土台というのが、このマップ記号(●)でも「古墳」を示す「富塚古墳」のことでしょう。

「戦前からあった『ふじまつり』は、水稲荷の氏子と富士講が、もともと別々にやっていたのを一緒にやるようになったのです。かけ小屋ってわかりますか?見世物小屋のことですが、そんなものが建ち、ずいぶん賑わいましたよ。富士講のことをここらでは『お講』と呼んでいましたね」

一応、現在のマップも出しておきましょう。



カーサも健在。
(他のマップと同様に、早稲田通り側の旧参道入口にオレンジの矢印、富士塚跡には緑で色をつけてみました)


おまけです。まつりの後、ちょっと水稲荷神社の社務所に上がらせていただきました。



大広間に掲げられていたのは、富士山とちょっと艶かしい天女の絵。なぜか翼で空を飛んでいる。写真は失敗しましたが、実はこれ、鏝絵(こてえ)です。左官職人が漆喰を使って、こてで仕上げたレリーフのこと。ゆる〜くてイイです。
富士塚のお山開きで1番遅いところは練馬区の大泉富士ですが、2番目に遅いものは、富士講による最古の富士塚、早稲田の高田富士です。現在では、お山開きというより地域のお祭りとして知られていますが、富士塚が一般公開される貴重な2日間です。



2年前は「高田富士祭」、昨年から「高田ふじまつり」という表記になっています。

今年は、お世話になっているアウトドア業界のIさん、Tさんと一緒に出かけました。途中、中央区の鉄砲洲富士に寄ってきたので、待ち合わせ時刻をちょっと過ぎてしまいました。(なぜ鉄砲洲富士に行ったかはまたあとで)

2年前から、富士塚と富士講の資料コーナーが充実していますが、



今年はお札頒布の場所が移動し、



展示される貴重な品が増えていました。



丸藤講宮元講社の先々代先達の鮮明な写真なども、ファイルになって公開されていました。浅行先達は、比較的印刷物で目にしますが、この写真は初めてでした。目に独特の光があり、やはり「先達オーラ」を放っています。左側の石像は、その先達の姿です。富士吉田の北口本宮富士浅間神社でお目にかかれます。



富士塚レポは省略しますが、(昨年の様子は→こちらこちら

今回は上のTシャツにある「冨士下」に迫ってみました。

つづく。。。

縁日はわくわくします。神社の本殿前では盆踊りとかやってるようです。


富士山の登山口も妖しげになってまいりました。


さすがにここも注目されてた。


どの人もお参りは丁寧です。


異郷へと吸い込まれていくこの快感。ええ誰もがそのようです。


頂上では若干列ができていました。(本物の富士山みたい?)


上機嫌でノリノリの氏子さんが「ここも富士山なんだよ」「ですってね」


「はい。登山記念だよ。この笹も富士山の……」「こらこら」「とにかくお山に登って来たから、健康をお祈りして……」「はい、ありがとうございます。ところで」


「あれは何ですか?」「ほら、お山に登ると人間大声を出したくなるだろ?」「へ?」「まあ、大きな音を出したくなるのも同じさー」


「これは何ですか?」「ああ、富士山が火山だってことだよ」「お焚き上げじゃないんですね?」「う〜ん、やっぱ火山かな」「ゴミを燃やしてるんでもないんですね?」「違うよハハハ。あ、どうもどうも!あの人、神主さんだよ」


差し入れを持って登って来たのは白袴の神主さんでした。一応儀式的なことを聞いたら、「特にやってませんね。講の方ですか?来ませんよ〜」でした。



頂上は町内の人たちの社交場になってます。「あれ〜○○ちゃん?」「おお、□□じゃねえか」「痩せた?」「逆だよ。太っちゃってさ〜」とか「あんた△△とこの○○ちゃんかよ。大きくなったね〜」なんて声が飛び交って。夏祭りはいいですね。


お山はフシギな時間が流れておりました。


空の色もよくなってきました。


祭りは始まったばかり。もっと人出を待つかどうか、ちょっと悩んだけど……でもやっぱりさよなら。


空が一番きれいな時刻に帰ると、記憶が鮮やかだから。
夕暮れになるまでちょっとぶらぶら。
早稲田界隈ですから古本屋が多い。つい古本と古着を買い、すごい荷物のまま歩き回ってしまいました。買った本は、以前持っていた藤原新也著「東京漂流」を再び。ちょっと自分に喝を入れるため(笑)。¥100の新品でしたから。。。
古着はいろいろ買ったけど、例えば浴衣柄のワンピース。\1000也。(花火大会用です)


水稲荷神社へ戻ると、人が増えていた。昼間しまっていたテンポラリー神殿ともうひとつの資料コーナーが設置されていました。






最後の写真は、古い本でお見かけする丸藤宮元講の故井田浅行藤開師ですね。ありとあらゆるものが並んでいました。講の方は不在ですけどね。


さて、提灯に灯もともりました。もう一回登ってみようかな〜。


神社の外側からはこんなです。富士山の頂上から煙が立ちのぼり、灯りも見えてきました。


暗くなって初めてわかる、富士の存在。
 
鉄の門が半分だけ開いている。人の気配はない。「登っていいですか〜」とつぶやきながら足を踏み入れると、目の前にいきなり登山口が待ち受けていました。その左には浅間神社。狛犬つき。


さらにその左に古い手水鉢。水はない。


登山道は建材で誘導がつけられてます。夜になったら目立たなくなるのでしょう。安全だけ守られて。ところどころに青竹が地中に刺さっている。中を覗くとハロゲンライトが上を向いてる。ライトアップ用でしょうか。ニクい演出ですね〜。


道を左に曲ると、次のカーブのところに「小御嶽」がありました。(私の大好きな日と月♪)賽銭箱が置いてないのはまだ早い時間だから。背後のよしずあしらいがなかなかイイです。


これ、水盤だった時代もあったろう……なんて考えながらゆっくり登ります。


石段は高からず低からず、長からず短からずで歩きやすい。これなら子供たちも安全でしょうね。


もう頂上が見えてきました。鳥居かな?(後でわかります)


次の左折地点の手前ですごいものを見つけました!この巨岩、歴史的なものは何ひとつ刻まれていません。でも、ひと目でピ〜ン!「鉄砲洲富士」にあったものと同じだ!双方とも烏帽子岩らしき岩、まるで兄弟岩です。石好きな私としては記憶に残る同素材でもありました。実は文字をあまり気にしない私(文字が全て正しいとも限りませんし。最近勉強になった件もありで、まあそのへんは研究家にお任せします)ですが、造形作家の視点で気づくこともありまして。。。(自分で作る富士塚オブジェには文字なしの烏帽子石を使うのが好みです。材料棚にはビーチで採集した烏帽子石が山のようにあります。そんなことから気づいたんですけどね。笑) 実際、指標だけで名所を表わす場合と、形だけで表わす場合があるようで。私はやはり後者のミニマルな表現が好きですね〜。それはさておき兄弟岩たち、やはり丸藤講という同じ講社によって作られた塚だったのです。高田富士を造った高田藤四郎さんの弟子が、鉄砲洲丸藤講の初代先達なんですね〜。


先を行きます。夜編もアップするので手短に。これは頂上のお宮と水盤でした。


頂上の石祠の横から下山すると(構造的には他にも下山道あり)、


着地点脇には……


「御胎内」。

 
立派です。


傍らには大正2年に建てられた「講祖日行藤四郎翁開發霊蹟・富士山北口胎内窟模造修築記念」というメチャでかい石碑がありました。これはその部分。

天狗像等の石像もあったけど、立ち入り禁止の中でした。枯れ葉の中に埋もれていて侘びしかった。
行って来ました。はじめての高田富士。


先人の富士塚研究者による現存する富士塚リストの中には「高田富士」という名前は出てきません。最古の富士塚と言われて有名な高田富士は早稲田大学の敷地拡張のために取り壊されたとして、過去の扱いであります。土地をめぐり、ちょっとややこしいやりとりがあったことは割愛しますが、移転先の水稲荷神社がここ一帯の地名戸塚にあることから戸塚(富塚)富士、富塚古墳跡も由来してか「富塚富士」と通常は言われています。でも、ふつう富士塚移築が頻繁にあっても塚の名前は変わらないこと、水稲荷神社側が高田富士と呼んでお山開きをやっていること、神社の境内に富塚という古墳(これも移築)があってややこしいこと、などの理由から私は高田富士と呼んでしまおうと思います。


もちろん、移築した(昭和40年代に)この塚を指してコレが最古の…と神社が言い切るのはちょっと強引だと思うけど、元の塚にあった石碑とかは全部運んだのだし、もうひとつの塚、古墳の富塚と混同されてしまうことも考えると、「(移築した)高田富士」でいいよな〜と。実際、高田富士の後に富塚をチェックしていたら「これが富士塚ですかー?」と聞かれました。早稲田大学の学生さんでした。


富士塚登山口の手前に設置されていた資料コーナーには確かにコソッと「移築」の文字が。これに気づく人はあまりいないでしょうが。(下の小さな写真群はよその富士塚)


まあ、これが最初の高田富士の姿(昭和30年代)だったということで。のどかな風景ですね〜。(私も大泉富士ではこうして遊んでました。昭和50年代ですけど。笑)


少なくとも神社は盛り上げようと頑張っています。この入り口はぐっときます。見せ物小屋っぽくて(笑)。

つづく。。。


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プロフィール
HN:
芙蓉庵 (Yoko Arisaka)
性別:
女性
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富士山に登りたくても登れな
い人たちの為に、江戸時代に
関東各地に造られた「人造富
士山」のこと▲です。富士山
を信仰する▲▲▲富士講によ
るもので▲▲▲▲▲したが、
地元に▲▲▲▲▲▲▲ミニチ
ュア▲▲▲▲▲▲▲▲▲の富
士山が出来たことで、多くの
人が登山でき、大流行しまし
た。民衆のパワーですね♪♪
富士山の溶岩をのせ、一合目
から頂上まで登れるようにな
っています。意外なところに
ひっそりたたずんでますよ。
…………………………………

▼▼▼【芙蓉庵】とは▼▼▼
…………………………………
美しい作品も好きだけど、コ
ンセプトありきで表現するこ
とに喜びを感じるビジュツ家。
表現形態はこだわりません。
現在、富士塚のコンセプトに
インスパイアされ、色々な媒
体で表現。著書の【ご近所富
士山の謎】【富士塚ゆる散歩】
も、私にとっては作品です。
なぜ富士塚か……それは、海
外生活での体験から。詳しく
は本のあとがきに記してあり
ます。

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