▲「富士塚」だけで日記が書けます♪▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
2月の大雪の後、富士山のふもと、富士宮も雪に覆われていました。 富士山本宮浅間大社境内に、小さな富士山。 「富士山・浄め砂」は、前日に降った雪がいい具合に 溶けかかっていて、 珍しい姿になっていました。 雪がなければ目立たない、三角錐に盛られた砂の山です。 文字どおり富士山のお砂で、富士山の中腹から持って来た 溶岩砂(火山灰)。 見た目は、盛り塩のようであり、立ち砂のようでもあり、 近寄れない位置にあるので、神社にうかがいました。 「富士山の浄め砂は、どのように使われますか?」 「信仰(儀式)目的ではないですね。確かに富士山の砂ですが」 「では、地鎮祭とか、土地に撒く浄め砂とは違いますね?」 「ええ、お配りしたりすることもなくお供えしてあるだけです」 「いつ頃からあるのですか?」 「新しいものなんですよ。かれこれ20年前からですかね〜」 というわけで、霊峰富士のお砂は、盛り塩に近いと言えます。 そこにあるだけでお浄めをしているわけですね。 富士山の霊砂を富士山型に盛ることで、浄化をしています。 砂で作った富士塚と言えるでしょう♪ ちなみに、砂を富士山型に盛るのは三重県の富士山信仰にあります。 Facebook あり〼
世の中には、曖昧でいいことも多々ありますが、
【絵師のキモチは絵師にしかわからないときがある】ので、 ひとり調査に飛びます〜〜〜。自分の仮説を確かめに。 行き先とその内容は、帰ってからのお楽しみ♪ 天女ふたりも応援団になってくれますね♡ Facebook あり〼
もちろん、この方はコノハナ様ではありません。
旅先で訪れた、カトリック教会にて。 聖堂の中で、西日が射し込むステンドグラスを眺めながら心を落ち着かせ、出てきたところ、建物の外側にもいらした聖母子像です。 聖母マリアと目が合った瞬間、コノハナ様がよぎりました。 「まあ、コノハナはある意味聖母でもあるわけだし♪ ね〜」 なんて呑気なことを言っていたけど、この後、北陸でコノハナ様に会うことになっていたとは。 先週、新潟の旅に出ていました。 昨年の今日は「感謝の旅」というタイトルで、日記を書いてありました。 旅の目的は今年も同じで、お墓参り。 ご先祖様への感謝&これからも頑張るゾ〜という決意表明ナドナド。 去年は「新潟」という地名は出さなかったのですが、今回はちょっと面白いことが重なったので、あえて出しました。 新潟カトリック教会を出て数時間後、上古町という商店街を歩いていました。 すると、 「おっ大山祇。。。てことは娘の。。。おっコノハナ様♪」 暗がりのコインパーキングの片隅に、社だけの「大山祇神社」に遭遇しました。 通りを進めば白山神社に突き当たる商店街の途中です。 「しかしなんで〜?なんでこんなところにおわします〜???」 新潟には驚くほど多くのお寺がありますが、それに比べると神社はさほどない。 白山神社(加賀の霊峰、白山を信仰)が市の中心地にあって有名だけど、それ以外は小さな神社で、多くは無人の稲荷神社。 だからか、浅間神社もない(市内の西遠方に一か所のみ)。 「海に近い町では海上安全や五穀豊穣が祈願の中心だから、稲荷神社は多いね。山岳信仰はあってもせいぜい白山かな」 と納得なのですが、このミニミニ大山祇神社でコノハナ様に出会えたのは、とてもフシギな気がしました。昼間、新潟カトリック教会で、マリア様にダブらせてコノハナ様を感じたから、引き合わせてくれたのでしょうか♪ さて、新潟の旅から帰宅したら、もっとビックリなことがありました。 山梨県河口湖町の「上の坊」さんから、面白いメールが届いていました。「禊の滝」(母の白滝)近くで見つけましたと、画像を送ってくれたのです。 どれどれ。ああ富士講の講碑ですね。ふむふむ、三十三度大願成就ですか。 この地「母の白滝」にて角行が、のちに食行が禊の大行をしたと。ふむふむ。 そして諸国の信徒が、ここに修行に訪れるようになったと。ふむふむ。 ところが、その先が驚きでした。 越後國刈羽郡柏崎の、渡邊幸行誠直も明治6年に大行を修めたと。えっ? 寄附人が、新潟市の小出喜七郎ですと? 明治35年8月のこと。 へえ〜!っと驚きました。柏崎に富士講があったようです。 講紋の柏は、千葉県柏市でも、埼玉県東松山市柏崎でもなく、新潟県の柏崎〜! 詳しいことは郷土史をひも解かないとわかりません。 現時点で、渡邊幸行という人および新潟の富士講に関しては、何ひとつ資料がない。 では、この石碑を建てた小出喜七郎 (1860-1939)という人物は? 実はこの人、明治時代、新潟市では有名な財界人だったとわかりました。たぶん油田のある新潟で石油関連の企業で財をなした人ではないかと。でもこの人が富士山の信仰を持っていたのかどうか、また柏崎の渡邊幸行という人物とどういうつながりがあったのか。。。 さすがにそこまではわかりませんが、少し調べてみたら、新潟市内に彼の名前が記された神社の鳥居があったことが判明。 豊照稲荷神社という神社の鳥居のことですが、 「石の鳥居には明治24年(1891)11月に、当時の新潟財界の有力者小出喜七郎が奉納したと刻まれている」 そうです。 まあ土地のお金持ちだったら、奉納なんて気前良くするかもしれませんが、その神社の位置を確かめてまたまた驚きました。素通りしたとはいえ、そこは私たちがお参りしたお寺の近くであり、かつ大山祇神社との中間地点だったのです。 タイムリーな画像をいただいて、何だかまた因縁めいたものを感じました。
春になると思い出す。
南の島のこの築山。 私が富士塚病にかかってまもなく遭遇したものでした。 目的は違えど、積むという行為、そしてこの形と素材に惹かれ、ここには何度も出かけました。 3年前に書いた記事。 …………………………………………………………………… この、沖縄の八重山黒島にある「富士塚」に酷似したものは、 実は「プズマリ」と言ってこの地方独特の人工の小山です。 富士山はもとより、何の宗教にも関係ありません。 ですが。富士塚を見なれた人達がこれに遭遇したら、 どうでしょう。江戸の人達がこんなの見ていたとしたら? 「プズマリ(タカムイ)は海上を行く貢船や異国船を 監視するため、遠見台として琉球王府時代に 使われた、黒島で一番高い場所。 『黒島口説』に歌われる『メーヌスカムイ』のこと。 八重山の島々にこのような遠見台があり、 船が見えると火や煙を使って遠見台から遠見台へと 次々と合図が送られ、石垣島の蔵元へ通報された。 石が崩れる場合があるので、登るときは注意すること」 つまり「火番盛」のことですね。 黒島では「プズマリ」と呼ばれますが、 竹富島では「クスクムリ」、 波照間島では「コート盛」で親しまれて(?)います。 いずれも琉球石灰岩を積み上げて作られたものですが、 私は黒島のプズマリがダントツに高く立派な形状なので、 大好きです。はい。 黒ずんだ琉球石灰岩は、見た目が 黒溶岩にそっくりです。 …………………………………………………………………… 八重山で私は、富士塚を知る上で重要になったふたつのものに出会いました。 築山として、カタチの認識につながった「火番盛」。 そして、拝みの場である「御嶽(うたき)」。 ただ富士塚めぐりをするだけではわからなかったこと、神社めぐりだけでは感じなかったことを、形と精神の両面から、私なりにひもとく作業をしていたのだと思います。本当に、すべてのことは必然に起こるのですね。 さて、富士山柄の素敵な服に出会った日、八重山つながりの友達と会いました。 私が八重山に通い始めた頃に出会った人です。 お互いひとり旅でした。住んでるところが離れているので、その後手紙のやりとりをしながら、何度か会うこともできました。遠くにいてもずっと交流が続いているのはとても嬉しいことです。今回も数年ぶりの再会でしたが、島の宿で飲んでいるかのように楽しかった♪ 八重山にも住んだことのある彼女は、やはりプズマリの記憶がありました。 「ああ、あるある!」 富士塚を見たことない彼女に、いつか東京の富士塚も見せてあげたいな〜。 きっと驚いて言うでしょう。 「あ、プズマリだ〜」って。
私は、他の人ほど自分の過去の作品に興味がなく、すぐ忘れてしまいます(笑)。作ったものも大事だけど、これから作るもののほうが大事だから。
ところが、たまたま昔のコンタクトシート(密着紙焼き)が出てきたので、ルーペで見てみたら。。。驚きました。 90年代半ば、NYの私のスタジオにて友人が撮ってくれたものです。 手前の白い八角形の絵は、油絵具とエンコスティック(蜜蝋)に銀箔あしらい。月向台にインスパイアされて描いた築山です。ふたつ奥は、油絵に金箔。これは岩山です。 この頃はまだ富士塚を知らないのに、なんと小山を描き始めていました。理由はわかりませんが、山が気になっていたのでした。それもただの山でなく、儀式的な築山。 そうだった。そうだった。魂が山もしくは巨岩に入るという信仰がアジアにある、と知り、気になってしかたがなかったのでした。この頃はまだやみくもに、手が動くに任せて描いていました。オートマティズムに近い。でも、これが後の富士塚との出会いの下敷きになっていたとすれば、興味深い。 そう言えば、今年の春にある人から言われました。 「あなたはずっと昔から富士塚を知っていたはずです」 いえいえ、私は知りませんでしたよ。でも。。。知っていたような気もする。正確に言えば、富士塚というものは知らなかったけれど、それに出会う伏線としていくつか思い当たる感覚はある。聖なる山のイメージ、築山をつくるイメージ。。。そういうことですか。 たまには冷静に、自分の辿ったものを見つめるのも大切な行為かもしれません。ちょっとひも解いてみようと思いました。
富士山が臨めない土地でも、富士山を思う人がいる。
「富士館」のタイル画。 割烹の店先にも♪ それは招福のアイコン。ありがたき姿。 町を歩けば、目に飛び込んで来ます。 本を出させていただいた感謝の気持ちを込めて、ご先祖様に報告をしました。 あ、間違えた! これは、この先また、新しい展開で活動できますよう、願いを込めて イメージ画像を作ったのでした。(もちろん違う媒体でね!) でも、願いを叶えるためには、こういうことって結構効果あるんですよ。 実は昨年、本を出したいなと思った時、見本を作ってみたのでした。 その直後、短期間に出版の運びとなりました♪ つまり「イメージありき」です。 富士山が「いいよ」と言ってくれたのか、宇宙が力を注いでくれたのか。。。 実際の図はこれ。 墓石を丁寧に洗ってお掃除しました。ありがとう、ありがとうとつぶやきながら。 ほんのり桃色をした石は温かく、「よく来てくれたね」と答えてくれました。 私は感謝の涙をこらえ、かけがえのない時間はあっという間に過ぎていきました。 ありがとうの気持ちは、ひたひたとまわりにも伝わったみたいです。 吾亦紅(われもこう)や、ピンクのりんどうが、一層鮮やかに見えました。 やはり、先祖への感謝は基本です。 富士山信仰でも言いますね。「モトノチチハハ。。。」 天地創造主のことですけど。
これから頑張るために、ちょっとだけ富士山を離れることにしました。
羽田を飛び立ち、しばらくすると富士山が姿を見せてくれました。遠くにあってもすごい存在感を放っています。↑ここは横浜の港あたり。 ↑手前の突端は真鶴ですね。 宝永山もこんなにくっきり。 ↑視界から相模湾が離れ、左手に駿河湾が入って来ます。心の中でつぶやきました。「富士山、しばらくさようなら」 しかし、富士山から離れたとはいえ、ついついこんな画像をおさめてしまいます。 登山口は3つ。 庭園の築山です。富士塚ではないですが、やはり観察してしまいます。質感がボク石に近いものが多いです。珊瑚礁からできている琉球石灰岩ですから。 ここは、石垣島の宮良殿内(みやらどぅんち)。琉球王朝時代(大和では江戸時代)の八重山行政官の屋敷で、これは日本庭園の流れをくむ最南端の庭園です。もちろん富士山には無関係ですが、琉球石灰岩を使っていることと、小さな築山なのに登山口が多いことが、どことなく親しみを感じるのです。 そしてもうひとつ。 竹富島にある御嶽(うたき)。聖地です。いくつもある御嶽の中で、ここだけ塚のような形状をしています。そして霊感及び芸術に関わる神様がいらっしゃるので、私は特別に感じるところです。とはいえ、いつもは外側から手を合わせ、まして中に入って画像におさめることもないのですが、今回は神様に事情をお話しして、撮らせていただきました。感謝と報告とこれからのことをお願いして。 実は、御嶽を知らなかったら、私はここまで富士塚にのめりこむこともなかったし、理解すらできなかったかもしれません。ふたつは学術上全くつながりはないですが、私の中ではつながっているのです。 それにしても、リセット目的の旅だったはず。何もしないつもりだったのに、結局ずっと考えていたのでした。富士山のこと。(笑)
八咫鳥と言えば、神武東征の際に天皇の元に遣わされ、熊野から大和への道案内をしたとされる烏ですよね。神武天皇つながりではないですが、中国の伝承「徐福が神武天皇だった!」にもある徐福のことは、新宮ではやはり無視できません。ここは徐福が上陸したところだし、「徐福公園」には徐福の墓や不老の池がありますからね。
徐福伝説は日本中驚くほど多いですね。富士吉田市にもあって、私からしてみればやはり蓬莱山を富士山と思いたいところですが(笑)、新宮では(近畿ということもあり)富士山など眼中にないわけですから、蓬莱山は熊野の山になるんでしょう。 でも、新宮市内に「蓬莱山」なるものがあったんです(笑)。熊野川の河口にある高さ30mの小山ですけど。徐福が住んでいたとするので、後世の人が蓬莱山と名づけたんでしょうが、興味深いのがこの山の南麓にある阿須賀神社です。徐福宮もありますが、阿須賀神社はじつは熊野発祥の地であるといわれています。 言い伝えによると、熊野大神ははじめ、神倉山に降臨した後、阿須賀の森にいたというのです。神はのちに本宮や速玉に遷ったわけですが、阿須賀神社が本宮や速玉よりも古い歴史を持っている、ということは(神倉神社のことは知られていても)あまり伝わっていませんね。 神の引っ越しといえば、沖縄久高島に降りたアマミキヨが対岸に上陸した後、仮住まいをしていた「ミントゥングスク」を思い出しました♪ そうそう、徐福のことを書いていたんだ。でも、面白すぎて深みにはまりそうなのでやめときます。ひとつだけ、南紀ならではのこと。徐福の末裔が秦(ハタ)氏と言われますが、それを前提のハナシ。始皇帝に「鯨にじゃまされまして……」と徐福が不老不死の薬を持って帰れなかった口実(?)にも出た鯨ですが、新宮近くに捕鯨で有名な太地があります。太地は秦地とも書くのだそうです。 |
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プロフィール
HN:
芙蓉庵 (Yoko Arisaka)
性別:
女性
自己紹介:
▼▼▼【富士塚】とは▼▼▼
………………………………… 富士山に登りたくても登れな い人たちの為に、江戸時代に 関東各地に造られた「人造富 士山」のこと▲です。富士山 を信仰する▲▲▲富士講によ るもので▲▲▲▲▲したが、 地元に▲▲▲▲▲▲▲ミニチ ュア▲▲▲▲▲▲▲▲▲の富 士山が出来たことで、多くの 人が登山でき、大流行しまし た。民衆のパワーですね♪♪ 富士山の溶岩をのせ、一合目 から頂上まで登れるようにな っています。意外なところに ひっそりたたずんでますよ。 ………………………………… ▼▼▼【芙蓉庵】とは▼▼▼ ………………………………… 美しい作品も好きだけど、コ ンセプトありきで表現するこ とに喜びを感じるビジュツ家。 表現形態はこだわりません。 現在、富士塚のコンセプトに インスパイアされ、色々な媒 体で表現。著書の【ご近所富 士山の謎】【富士塚ゆる散歩】 も、私にとっては作品です。 なぜ富士塚か……それは、海 外生活での体験から。詳しく は本のあとがきに記してあり ます。 ★★★★★★★★★★★★★ お問い合わせ、ご連絡は↓ y♡k♡◆ris◆k◆.◆rtist★gm◆il.c♡m (♡をoに◆をaに★を@に変えて 入力して下さい) ★★★★★★★★★★★★★ 掲載の写真・イラスト・文章等の 無断使用・転載は御遠慮下さい ★★★★★★★★★★★★★
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