▲「富士塚」だけで日記が書けます♪▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
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楽しみにしていました。とってもキュートな羽沢富士です♪



以前行ったことのある、「西谷富士」(上星川富士ともいいます)に似ているな〜と思っていたら、羽沢の人が西谷の講に関わっていたことが判明。造りが似るのもうなづけます。

でも、車道が塚を削ってしまった?

私はふと、竹富島の「ツンマセー」のように、残すことはできなかったのか、と思いました。

時折、道が不自然に彎曲していたりするのを目にしますが、それはたいてい聖地を回避した結果です。それを思うと富士塚だって聖地です。まるごと残されていたらなあと思いました。でも、これでもギリギリだったのかも。



昔の写真を見てみました。
塚の脇に、あぜ道のような道が見えます。

そして、幟が立っている!



幟は今も同じものが!ロープに引っ掛かっていましたけど。



なんと、到着して1分かそこらで、先達がするするっと登り出した!

つづく。。。
ここ中村富士は、雰囲気は最初に訪れた小机富士に似ているけれど、もっと清々しさを感じました。



頂上付近に植えられているマサカキ(神社や神棚でお馴染み。サカキより大ぶり)のせいでしょうか。木漏れ日が、マサカキの枝に結わえられたマネキを照らしていました。



頂上はかなり広い。森の中の円形ステージだ。

ここを管理するのは近くの長導寺の檀家の方々で、農家をやってらっしゃいます。清掃が行き届いていて、草もきれいに刈り込んであるのを見て、先達はとても喜んでました。

「ここねぇ、前はキャベツの収穫が忙しいって、門も閉まったままだったけど、最近は開けといてくれるんです♪」



私たちも、最初は先達と一緒に手を合わせていましたが、この空間に先達と一緒にいられることがただ有り難く、



その姿を目に焼きつけたくて、しばらく遠巻きに眺めていました。



優しく流れる先達の声に包まれ、木漏れ日はいつしか位置を変え、御身抜箱を照らしていました。そのドラマチックな様子は、皆の心のスクリーンにも焼きつきました。



頂上の浅間大菩薩の碑の横には、手に何か持つ大日如来座像。天保十二丑年六月朔日とある。やはり昔から六月一日に山開きがあったからでしょう。

七富士参りは東京でもありますが、現在ではたいてい七月一日に行われます。
「ここが一番早い七富士参りですよ」と先達。



塚の隣は、公園になっています。この斜面の中腹に、小御嶽の石碑があるそうです。



登って来た道をたどり、もう一度石碑と石仏を拝みながら下りました。(右は身禄像らしい)
七富士参りの出発から、約3時間たちました。ようやく4つめの富士、ということは、一か所に1時間近くもかかったということか?いやそんなに長居をしていないはずなのになあ。



菅田富士とも呼ばれる富士塚に到着。先達が「中村富士」とおっしゃっていたので、私も中村富士と呼ぶことにします。中村は字名らしい。バス停にも名前が残っています。



先達はとても嬉しそうでした。

整然とした石段の左右に、たくさんのマネキがはためいていたのです。先達のマネキも数多くあります。

お参りした人がその痕跡としてマネキを置いていくと思われがちですが、実はその逆。訪れる講がマネキを前もってその地に送ってあります。現地の講中(または氏子衆)が来訪する講に敬意を払い、「迎える」という意味でマネキを掲げるのです。白いマネキはここのオリジナルのよう。シンプルで美しく、背後の富士塚とのコントラストも印象的です。



「ろっこんしょうじょう〜」
先達の声は、心なしか軽やかでした。



頂上近くに、新しめ(確か平成)の仏像。



ほか、これらが横たわっていました。



「下菅田中村」

つづく。。。
熊野堂富士を下り、次の富士塚に向かう前にもう一度浅間神社に行きました。(先達は車の中でお留守番)

ふとしたことから、講の方たちが「拝み箪笥」を見せてくれることになったのです。

拝み箪笥とは、お焚き上げをする時に使う火鉢が入っていたり、祭壇に早変わりする祭具の収納箱。引き出しもついていて、まさに箪笥のように収納できます。



正面から見ると、手前に引き出しふたつ。



側面には、丸金講の紋が描かれていました。



天板を開けば、そこに祭具を置くことができます。



では、上の段から。



中には灰がびっしり入っていました。ここに線香を富士山型に積み上げて、お焚き上げをします。→【千葉市稲毛で見せていただいたお焚き上げ】はこんなです

「貴重な灰ですね〜」
「昔の灰がそのままですね〜」



下の段には、こまごまと祭具がびっしり。お焚き上げに使われていた線香は、未開封の千歳香。古新聞は大正時代の日付け?



「この布は何だったかな」
講の方も記憶が曖昧になるほど、長いこと使っていないという。



「すごい織りじゃないですか! 飾り紐も豪華で」

「わぁ〜♪ これら江戸時代のものですよ!」
すかさず学芸員Mさんが叫ぶ。さすがです。でもこれってナニ?



「私たちもちゃんと見てないから、これが何かよくわかんない」
と言いながら、広げた布は細長く、コの字型に縫い合わせられていました。

Mさんがすぐに指摘。「これは祠の扉まわりにつけられる幕ですよ」



てことは、あああれか?社殿の奥には神様がいらっしゃるけど、あの扉のまわりにつくものか。ふむふむ。

帰宅後、確認したらオドロキでした。



古い写真には、今と同じく「富士浅間宮」が写っていた。そして見せていただいたのと同じ柄(白黒だけど)の幕が2種、見えます。

オレンジ地色に銀糸の龍は、まわりの幕に。山吹色に青いキント雲と鳳凰は、内側の幕として、ちゃんと使っていたのですね。それにしても豪華だなぁ〜!

もう驚嘆の連続です。私たちが嬌声を上げていたら、講元がつぶやいた。
「先達さんが持っていた長い袋ね、あれとそっくりのがここにもありますよ」

「ええー!!!御身抜箱が!?」



「これこれ。同じでしょ?」
「ああ!ホントだ♪」

丸金講はいくつか枝分かれしています。岩岡先達は丸金講神奈川講社だけど、ここは何だっけかな。ちなみに、丸金講の金は、昔の先達の姓「金子」からとったものと思われます(ここには金子姓がたいへん多く、講元以外も皆、金子さんです)が、本来ならば神奈川の神をつけて丸神講とするところ、神とつけるには畏れ多いと、先達の名字からとったようです。

講元がおっしゃいました。
「中は長いこと開けていないんです。何が入っていたんだろう」

「御三幅です♪ 掛軸が3本入っているはず」

全員が即答したので、驚いたのは講元御本人でした。まあ、岩岡先達に同行するくらい、ハンパない集団です。詳しくてあたりまえ(笑)。



もう流れにまかすしかない講元。急遽、お宝のお披露目となりました。

感謝感激アメアラレ。

御身抜の一幅

小御嶽の一幅

これは変化球?

相州最乗禅寺からいただいた掛軸のようです。最乗禅寺とは、神奈川県南足柄市の大雄山最乗寺のこと。富士講と縁の深いお寺です。(十条富士を守る富士講の講員も、大雄山最乗寺道了講に入ってます)

ともかく、素晴らしいお宝をたくさん拝ませていただいて、われわれはとても満足。

「来年は、これらの掛軸を掲げてくださいな。お焚き上げだって岩岡先達がやってくださるでしょう。私たちも参りますから是非是非!」

などと大いに盛り上がったのでした。本当にありがとうございました!

そうそう。拝み箪笥は左右に金具がついており、棹を通せば担げます。



コツは、背中を箪笥に密着させること。でも難しい。

笑っているけど、実はメチャメチャ重いのです!
箪笥は火事の時に担ぐものだと思ってた(笑)。
一同、浅間神社から一旦降りて、熊野堂富士へ向かいました。



最勝寺の御住職も一緒です。





登山口はかなり急です!土がむき出しなので、雨が降っているとかなりキケン。(鉄パイプの存在は必至です) 今回は、晴れ女が3人もいたから全く問題ございませんが(笑)。





先達を見ていると、地下足袋のほうが地面の感触をつかめてよさそうです。



「ふう〜っ」
ここまでもかなり急でしたが、ここからさらに登山となります。



多数のアイテムは、どうぞ私の本をご覧になってください(合目石かわりの碑が面白い!)

ここから一気に、心をこめて登拝です。







頂上には、丸金講の大きな幟がはためいていました。先達は杖を置き、



大日如来座像に御身抜箱を立て掛け、拝みの始まりです。



先達の声、鈴(レイ)の響き、そして風の音。。。心にしみわたります。



頂上は、全員が立つスペースはない。拝みの後、交代で大日如来に手を合わせました。

標高にしたらどのくらいあるのでしょう。怖いくらいの高さです。



今ほど木々が延びていなかった頃、ストレートに視界に入る富士山の姿は、まさに神様に見えたに違いありません。



下山のほうが緊張します。こんなに急です! 左手、トタン屋根の小屋には、



拝みつづけている身禄像。

つづく。。。
「次は『くまんど』だ」
「??? あぁ!『熊野堂』のことですね♪」



車から降りて、思わず撮った「熊野堂富士」。赤い花が咲いている手前の盛り上がりではなく、その背後の森の奥が富士塚です。
「大きいな〜!」
「登拝はまだまだ。まずは浅間神社で拝みをしなきゃ。先達を待っている人たちがいるしね」



最勝寺をはさんで、



右側にある浅間神社にお参りです。



幟も立ってる。



一歩一歩、石段を登れば社殿が見えて来ます。このワクワク感♪



待ってらしたのは、地元の講の方たち。全員、社から外に出て先達を迎えます。毎年この日、社を開いて、先達がまわってくるのを楽しみにしています。これに近いアングルは



この古い写真。はっきり見えませんが、遠景も写っています。



さらにこの写真。現場に行った人でないとわかりませんが、中央が熊野堂(現在最勝寺)で、右側が浅間神社。富士塚はお堂をはさんで左側です。(写真はいずれも日本常民文化研究所調査報告「富士講と富士塚」より)



先達の拝みはありがたい。









見慣れた水色のマネキのほか、子安のもの、和紙でできた古いマネキも掲げられていました。この後、いよいよ富士塚に登拝。そして再びここに戻ったとき、皆は嬉しい悲鳴をあげることに♪

つづく。。。
ここの講はもう存在していませんが、地元の方によって社はきれいに掃除されていました。



岩岡先達と山梨からいらしたKさんが、注連縄につけられた紙垂(しで)のカタチに気づきました。



「これは北口(吉田側)の紙垂の作り方ですね」
「へぇーどれどれ?」
「ほら。普通紙垂は同じ方向に順番に折られているけど、これは上から二番目が反対向きなんです」
「あ、ホントに!」
「それに、切り込みの角度も斜めになって、心なしか富士山を意識しているみたいですね」

先達の追っかけは、勉強会にもなりますね。



ここには、小御嶽石尊大権現の碑のほか、



丸青講の碑もありました。大日如来の石像はどこにあるのでしょうかね。もしかして社の中?
小机富士は港北区でした。次に向かった東本郷富士は緑区です。



「おお、マネキが掛かっているね」
先達は嬉しそう。本来、七富士参りでやって来る講を迎えるため、地元の方がこうして前もってマネキを掲げてくれるのです。

この富士塚(形状は塚とは呼べないけれど)の講も丸青講。小机の丸青講の元講です。



東本郷富士は坂の住宅街の真ん中。塚という感じではなく、小さな一角に社がある程度。

でも、かつては「鶴見川を見下ろす丘陵に形のよい富士塚があった」そうです。「昭和40年東本郷町南耕地地域の宅地造成工事のため富士塚は削平され、団地に一部移転された」(以上、神奈川大学日本常民文化研究所の報告書第2集「富士講と富士塚 -東京・神奈川-」より)とあるから、団地というのがこの住宅街のことか。ここは丘陵の東側にあって川は見えないから、ちょっと離れたところから移されたのではと思います。



昭和49年に建てられた碑はかなりデカい!

先達は斜面の下を指差し、「本郷団地の近くに池があってね、そばに十一面観音が祀られていたんです」。う〜ん。地理感ない者でもこういうお話は興味がわきます!地形と郷土史を調べてみたくなりますね。



森の中の富士塚もいいけれど、好天の下、日を浴びて皆が集まるお参りも気持ちいい!



つづく。。。
登山道に埋まった枯れ葉がふわふわし、滑りやすく足元をふらつかせる。
でも、富士塚の頂上は平坦で、かなり広い。立ち拝みなら30人でも余裕あります。



先達は杖を置き、御身抜箱を「富士仙元大菩薩」碑(文久元酉年五月)に立てかけて拝みを始めます。



お伝えは基本は同じですが、講によって少しずつ違います。また、拝みも儀式によって唱える内容が変わりますから、「あ、このくだりは知ってる」とか「あ、これは聞いたことない」とかあって、われわれ【知りたい集団】は興味津々。わかる箇所だけ一緒に声を出します(大事なのは参加すること)。

Kさん「小御嶽のくだりはたっぷりありましたね」と。たしかに。

本当は、拝みの最中は一緒に拝みたい。でも写真にも残したい。
拝みたい。撮りたい。拝みたい。撮りたい。このはざまでいつも悩みますね(笑)。



思わず先達の行衣にクローズアップ。

消えかけた墨文字やご朱印、そして継ぎはぎの何と美しいことか。
木漏れ日が当たってキラキラと輝き出す数珠の水晶も、浄化の波動を生んでいる。

先達の言葉が心地よく流れ、頂上から富士塚全体をゆっくり覆います。講ではかつて、20人ほどの講員たちと拝んでいたそうですが、先達ひとりの声も感慨深い。優しく静かながらも、ろうろうと伝わります。



塚を覆うこの空間を何と言ったらいいだろう。何か新しい表現を考えておこう。

拝みでお山はまた富士山になりました。(拝みやお浄めの後が、富士塚を訪れるベストなとき、と私が言うのはこの理由です)



さあ。下山しよう。これからまだまだ回るから。



ボク石は使われていない。登山道は螺旋状。横浜らしい富士塚でした。

塚を造った丸青講はもう活動していないけど、かつてはこの日、幟を立て、掛軸をかけ、お赤飯とお煮しめで、他から来る七富士参りの人たちにふるまったそうです。
先達はわざわざ駅まで迎えに来てくださいましたが、七富士参りを自転車でまわるのではありません(笑)。先達の地元である熊野神社を拠点に、車で参ります。

まずは一気に北上し、ひとつめの参拝は「小机城址市民の森」の中にある小机富士でした。小机城の歴史は割愛しますが、かつて横浜市には多くの城があり、それぞれの地に富士塚が残っています。

鶴見川の南に位置する小机城址市民の森は、南西側がJR横浜線と第三京浜道路によって十字に分断されました。



横浜線と平行する北側の坂道で車を降り、登拝の準備をします。御身抜箱をしょい、手にはシャクナゲ製の「中道杖」。

「昔は下の方から登ったんだけどね。。。」
先達が富士講に入ってから約50年経ちます。風景は激変、もちろん慣習も。



第三京浜下のトンネルをくぐると、



急な石段がありました。
われわれが「たっかいね〜」とモタついているうちに、
先達はあっと言う間に先を行く。掛け念仏を唱えながら。
「あ、置いてかれるっ」



そのまま森に入りました。



こんな道標もあり、富士塚は近い。



地元の知人らしき方とすれ違ったりしながら少し行きます。
木々の濃さが増してきました。



富士山の神界に吸い込まれる行者のごとし。



こんな光景を目にすると、やはり思ってしまいます。
「富士塚はただのミニ富士ではない」

つづく。。。


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プロフィール
HN:
芙蓉庵 (Yoko Arisaka)
性別:
女性
自己紹介:
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富士山に登りたくても登れな
い人たちの為に、江戸時代に
関東各地に造られた「人造富
士山」のこと▲です。富士山
を信仰する▲▲▲富士講によ
るもので▲▲▲▲▲したが、
地元に▲▲▲▲▲▲▲ミニチ
ュア▲▲▲▲▲▲▲▲▲の富
士山が出来たことで、多くの
人が登山でき、大流行しまし
た。民衆のパワーですね♪♪
富士山の溶岩をのせ、一合目
から頂上まで登れるようにな
っています。意外なところに
ひっそりたたずんでますよ。
…………………………………

▼▼▼【芙蓉庵】とは▼▼▼
…………………………………
美しい作品も好きだけど、コ
ンセプトありきで表現するこ
とに喜びを感じるビジュツ家。
表現形態はこだわりません。
現在、富士塚のコンセプトに
インスパイアされ、色々な媒
体で表現。著書の【ご近所富
士山の謎】【富士塚ゆる散歩】
も、私にとっては作品です。
なぜ富士塚か……それは、海
外生活での体験から。詳しく
は本のあとがきに記してあり
ます。

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