▲「富士塚」だけで日記が書けます♪▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
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ひとつ前の記事に、「琉球八景」の " 種本 " となったのは
「球陽八景 きゅうようはっけい」と書きましたが、



「球陽八景」は「琉球国志略 りゅうきゅうこくしりゃく」という
歴史書に添えられた、挿絵の中の「沖縄の8名勝の図」を指します。
場所はすべて那覇市内です。

「球陽 きゅうよう」とは琉球の別名で、今でも那覇市内で多くの
名称(会社名や学校名など)に残っており、市民に親しまれています。

さて、冊封使(さっぽうし)というのをご存知でしょうか。

中国の皇帝が、臣下(付庸国)の国王に、国として認めたしるしを
携えて送る使者のことです。

琉球国に来た使節団の回数は、1404~1866年の間23回にのぼります。

18回目(1719年)に来た冊封(副)使の徐 葆光(じょ ほうこう)が、
那覇の景勝地を「院旁八景 いんぼうはっけい」という漢詩にして
残しました。

その記述を元に19回目(1756年)の冊封(副)使周煌(しゅうこう)が、
編纂した「琉球国志略」(16巻17部門に及ぶレポート)の中に、
おさめられた挿絵が「球陽八景」だったのです。

(実際筆を取ったのは絵師でしょうが)
「『球陽八景』は周煌による」と言われるのはそのためです。

つまり「球陽八景」は中国人が描いた絵。
それを、北斎が見て「琉球八景」を描いたのです。

流れをわかりやすく書くとこんなでしょうか。

● 徐 葆光(じょ ほうこう)『院旁八景 いんぼうはっけい』(漢詩)

● 周煌(しゅうこう)『球陽八景 きゅうようはっけい』(挿絵)

● 北斎『琉球八景』を描く(浮世絵)

ちなみに、沖縄に行ったことのない北斎が、球陽八景を見たのは、
江戸時代、爆発的な琉球ブームがあったから。

1609年の薩摩侵攻以降、琉球から江戸城に使節団が参る「江戸上り」
が幕府によって義務づけられました。



約100人の使節が路次楽(ろじがく)を演奏しながら江戸を目指して
行進する姿は人々を惹きつけ、街道では見物人で沸き立ったそうです。

↓首里城祭で再現された路次楽です。


江戸上りは、徳川将軍や琉球国王が代わるたびに行われ(全18回)、
1800年代になると、江戸上りにあわせて多くの琉球関連グッズが
世に出ました。出版物も多く「琉球国志略」も江戸で刊行されました。

北斎は、その中の「球陽八景」を見て、1832年の江戸上りの際に、
「琉球八景」を制作したと言われています。

ずいぶん前置きが長くなりましたが、もう一度、
富士山が描かれているという3景をじっくり見比べてみましょう。

特に、左の「球陽八景」に注目。

 長虹秋霽 ちょうこうしゅうせい

 城嶽霊泉 じょうがくれいせん

 中島蕉園 なかしましょうえん

気づきましたか?
上2枚「長虹秋霽」と「城嶽霊泉」に富士山らしきものが描かれています!

しつこいようですが、「球陽八景」は中国人が描いたものです。

つづく。。。





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「琉球八景」は、「富嶽三十六景」と同時期に制作された
錦絵(多色摺りの木版画)のシリーズです。
でも、その姿を見る機会はあまりに少ない。

現在、東京の三井記念美術館で開催されている「北斎展」の中で、
ホノルル美術館からやって来た「琉球八景」を見ることができますが、
(前期4月14日〜5月13日には、粂村竹籬、龍洞松濤、筍崖夕照、中島蕉園、
 後期5月15日〜6月17日には、泉崎夜月、臨海湖声、長虹秋霽、城嶽霊泉
 が入れ替えで展示)

日本に所蔵されている琉球八景は、沖縄県浦添市の浦添市美術館のほか、
東京国立博物館や、神奈川県立歴史博物館、川崎・砂子の里資料館くらい?
(他にもあればご連絡くださいmm)

最も知られている「浦添市美術館」でも常設ではなく、数年に一度くらいに
しか公開されません。

前回の公開は、昨年でした

今春まで、今年の公開の予定はなかったのですが、
急遽6月に公開されることとなりました。

理由は、さる日本画家から琉球八景の校合摺り(きょうごうずり)を
浦添市美術館に寄贈されたことで、版画と校合摺りの同時公開が
企画されたのでした。

「校合摺り」とは、版画制作作業の工程の名称で、
単色(スミ)を使って試し摺りをすることです。

彫り師は、絵師の描いた下絵に合わせて輪郭線のみで彫ります。
そして、それを摺った校合摺りを絵師が見て、
色分けの指示を出したり校正を行うのです。

通常このテの版下類は、版画を摺った時点で破棄されるので、
(版画界では、現代でも版木や原版を破棄することがよくあります)
こうした貴重なものが残っていること自体希有であり、
特別企画として、版画と校合摺りの競演が実現されるは嬉しいことです。
(特別公開「葛飾北斎・琉球八景とまぼろしの校合摺り」6月6日〜17日)

私が航空チケットを取った2月末時点では、6月の特別展の告知はなく、
だいぶたってから学芸員から聞いたので、はじめは随分口惜しい気持ちで
いっぱいでした。(6月に見られるのだったら時期を合わせたのにと)

でも、4月に東京で8景のうち前半の4景に会えてインスパイアもされたし、
今回は旅の目的(沖縄に富士山を描いた北斎の意図を知る!)に専念して
訪沖することにしよう!と心に決めました。

いきなりですが、
北斎の「琉球八景」には、" 種本 " がありました。

左側の単色版画が「球陽八景」です。クリックして大画面でご覧ください。

 泉崎夜月 いずみざきやげつ

 臨海湖声 りんかいこせい

 粂村竹籬 くめむらちくり

 龍洞松濤 りゅうどうしょうとう

 筍崖夕照 じゅんがいせきしょう

 長虹秋霽 ちょうこうしゅうせい

 城嶽霊泉 じょうがくれいせん

 中島蕉園 なかしましょうえん

つづく。。。





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先週、旅から戻りましたが、バタついていて記事を書けませんでした。
これから少しずつでもアップしていきます。あれこれ検証したことを。。。

「富士山を世界遺産に」の中でも紹介させていただいたように
北斎が描いた「琉球八景」の3景には富士山が描かれてあります。

●北斎は沖縄に行ったことがない。
●でも見えるはずのない富士山を、沖縄の風景の中に描いてしまった。
●それは、類いまれなるHOKUSAIのクリエイティビティによるのだ。

とはいえ、実は私は密かに疑問に思っていました。

「果たしてそれらは富士山かー?」

那覇に地理感のある私はじっとしていられませんでした。
はい。検証しに出かけた先は那覇でした。

まず、「琉球八景」の8枚の画像から。



泉崎夜月 いずみざきやげつ
臨海湖声 りんかいこせい
粂村竹籬 くめむらちくり
龍洞松濤 りゅうどうしょうとう
筍崖夕照 じゅんがいせきしょう
長虹秋霽 ちょうこうしゅうせい
城嶽霊泉 じょうがくれいせん
中島蕉園 なかしましょうえん

富士山が描かれているのは、下の3枚です。

つづく。。。





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自然石に、少しだけ手を加えて富士山の姿にした、御神体です。





右上の一部を削って磨いたもの。シマシマがとってもきれい♪
そして、残りはそのままってのがイイ。大変美しいものでした。
大きさは、およそ幅40×高さ30×厚み20(cm)。

側面は、



巻物の向こう側に見えています。

これは、6〜7月に開催された「富士講・大山講」の企画展に出品されていたもの。
場所は埼玉県ふじみ野市の上福岡歴史民俗資料館でした。

それにしても、
去年の新宿区につづき、今年は渋谷区、北区と、富士講の展覧会が多かったですね〜。こんなに続くのは珍しいことかもしれません。

ふじみ野市にも富士塚は多いです。もちろん展覧会でもいろいろ情報出てました。
横浜のTさん、教えてくれてありがとう♪

いろんな展示品の中、私はこの御神体にぐっときました。
祭具とのことでしたが、自然石を使ったものはそうそうない。
本当に、いいカタチでした。

富士山型の自然石については、またのちほど。
「胎内くぐり」は、生まれ変わるという儀礼です。新しい生を受け、リスタートするってわけです。と同時に、女でも男でも出産する概念があります。面白いですね〜。

「父の胎内」があったり、「邇邇芸命 ニニギノミコト」が祀られていることも興味深い。(ニニギノミコトはコノハナの夫です)

狭い溶岩の隙間を産道に見立て、「産まれようとする意志」と「産もうとする尊厳」を味わう。この両義牲が胎内くぐりの特徴かと思います。人間は、常に何かを作り生み出しています。生きていく上で起こりうる、たくさんの困難をうまく回避できるよう、ここを通ることは全ての人に対して御利益となるのではないか。

木花咲耶姫が「火中出産」した伝説から発生した「安産の御利益」ですが、それを広義に解釈することが富士山信仰のよきところ。私はそんなふうに思っています。

北斎の『木花咲耶姫』



胎内は「無戸室浅間神社」でもあります。木花咲耶姫が、出産のために石室を閉ざして火を放ったことに由来します。安産祈願のお守りに売られていました。

かつては、胎内くぐりをする行者相手に、膝わらじや白いタスキを売る者がいたり、胎内くぐりを終えた行者に産(うぶ)湯と称して足を洗う水や、祝いの酒をふるまう人がいたそうです。

タスキは、後で妊婦の腹帯にもなるとして、安産土産になりました。また、洞窟内で使われて短くなった蝋燭もお守りになったそうです。こちらは、妊婦が産気づいた時に灯されるもので、残りの蝋燭が消えるまでにお産が容易にできる、という願かけです。

なんと、この蝋燭の安産御守、今でも伝統として頒布するところあり。



数日前、私もある富士塚のお祭りでいただいてまいりました。
それは、次の日記にて。
胎内めぐりの様子は、絵図にもいろいろ残されています。

以前、「空飛ぶ絵師 五雲亭貞秀」のことを書きました

「起し絵」である『富士山真景全図』の仕掛け部分、「土中胎内之図」は胎内めぐりの様子です。また、他にも3枚つづりの『富士山胎内巡之図』などを描いています。

『富士山胎内巡之図』

アバラの表現はすばらしい。まさに肋骨のようにデフォルメし、迫力を出しています。

これを見て、歌川国芳の「相馬の古内裏」を思い出すのは私だけでしょうか。
『相馬の古内裏』

『富士山胎内巡之図』は、アバラの他にも、浅間大菩薩を拝む空間や、洞窟の天井から滴り落ちる水を受ける様子も描かれています。また、蟻の巣のような細い空洞を這いつくばって進む行者たち。絵は誇張してありますが、胎内最大の難所。木々が交差して倒れてできた空間は複雑であります。

穴はただ狭いのではありません。岩肌は溶岩です。擦れると痛いのなんの。私はちょっと入っただけなのに、大事な服にカギザギを作ってしまいました〜。

行者たちが胎内に入る時には、



膝にもわらじをあてていました。

それは、この面白い絵にも描かれています。



仮名垣魯文の『滑稽富士詣』の挿絵。絵師は国芳の門下である歌川芳虎です。

「押すな押すなよ〜!てやんでぃ」

つづく。。。
高田藤四郎(日行青山)は、食行身禄の弟子のひとりでしたが、自分の師匠の残した書物の中にある「ふたつのこと」に着手しました。

ひとつは、身禄の遺言と言われる「富士山のうつし」を造ったこと。もうひとつは、天地創造主である「モトノチチハハの現われたところが胎内である」ということを受け、船津の胎内を探しあてたこと。です。

藤四郎の真意は、研究者たちも論じていて、藤四郎当人に聞いてみないとわからないことですが、このふたつの業績【富士塚築造と胎内発見】は事実です。その後の富士山信仰に大きな道筋をつけたからです。

富士塚は、身禄のために造った模造富士であり、その麓には自らが発見した胎内を再現した。これってすごい!(私から見れば、究極のコンセプチュアルアートだ!)

(結果的に)富士塚が富士講の広告塔となってウケまくり、胎内めぐりも修行のひとつとして定着したことは、とても江戸っぽい。(だから好きなんだな〜)

さて、胎内のコト。
火山である富士山の麓には、溶岩による洞窟が無数にあります。

以前レポした「人穴」も洞窟ですが、それは溶岩流の内部にガスがたまってできた空洞で、「溶岩洞穴」と言われるもの。だからポッカリ大きな洞窟になることもある。(風穴や氷穴もそうですね)

一方、溶岩流が木々を飲み込んだ後、焼失した木の形がそのまま穴となったものが「溶岩樹型」。これが、複雑な形やディテールを形成するので、まるでヒトの体の内部のように見えることがあります。体内のごとき生々しさが、天地創造主の生まれいづる「胎内」として富士山信仰の聖地になったのもうなづけます。

また、「胎内くぐり」はもともと修験道の概念で、生まれ変わりの意味もあるので、修験の影響も濃い富士山信仰には自然の流れだったでしょうね。

人穴は、角行が籠って修行した聖地。胎内は、ここをくぐり抜ければ生まれ変わることができるという修行の場。でもまあ双方とも、「死生観」を有する聖地として、共通の概念があるような気がします。





船津の胎内は、胎内神社の社殿内からすぐ入ることができます。これは入ってすぐのところにある「アバラ」。全く肋骨のような形状です。本数が多いけどね(笑)。

もちろん、中に入ってからずっとかがんで進みます。



こんな鉄分たっぷりのドロッとした箇所もあり。かなり内臓っぽい。このほか、中状突起があったりおへそがあったり。



しゃがんでも頭がつくくらい狭い上、水があって先に進めませんでしたが、ここは母の胎内。胎盤や乳房や女陰石まであり、一番奥にはコノハナ像がいます。



面白いのが、母の胎内に対して父の胎内(!?)ニニギノ命まで!

つづく。。。
高田富士を造った人は、高田藤四郎。高田村に住んでいたから高田さん。植木屋という稼業でしたが、先達で、行名は日行青山。(宝泉寺にお墓があります)



高田ふじまつりの資料コーナーには、木彫りの日行青山がとびっきりの笑顔で人々を見つめていました。普段は、丸藤講宮元講社の先達宅にあります。



さて、これと同じ日行青山の木像が、もうひとつあります。





山梨県南都留郡富士河口湖町船津にある「胎内神社」です。

つづく。。。
「450年大祭」参加と人穴参り、そして冨士教での直会を経て、一行はある店を目指しました。せっかく富士宮に行くなら「富士宮焼そば」を味わってみよう、と当初からプランに入れていたのです。

私以外は山梨の住人で、そのうち富士吉田在の2人はなかなかこちらに足を延ばすことができない。特に御師を営む筒屋の奥さんは、いつも忙しくて外に出るチャンスも少なかった。人穴も初めてとのことでした。濃〜い時間の後は、お楽しみのひとときも入れなきゃね♪

Kさんが知っていた名店はあいにく閉まっていましたが、ふと見つけたお店でおいしい焼そばに出会えました。



いくつか種類はありましたが、私が選んだのはミックス。麺がモチモチっとうまい。トッピングの卵がマイルドにからんでいました。実は、直会で大きなお弁当をいただき満腹だったのですが、これは別腹(笑)。有り難く食しました。

ところで、ちょっと筒屋(づづや)さんのこと。かつては数珠屋(づづや)という屋号でした。当主は代々、北口本宮冨士浅間神社の神職につき、奥さんの御子息である現当主も権禰宜(ごんねぎ)です。曾祖父は、角行の文書を元にした年譜を残しております。

人穴にて、角行の真筆についてふれましたが、筒屋の奥さんも「そう言えばうちにも大事なものが」と言い出しました。それが何を指すのかは、彼女を含む家族も見ていないからわからない。開かずのトビラはまだまだ各家に残っているのです♪ 研究家にすれば悩ましいことでしょうが、これはとても素敵なこと。だって【史実 < ロマン】です。ビジュツ家はイマジネーションを大事にしなきゃね♪
世間では、パワースポットというよりミステリースポットとして知られている(知られていないかな?笑)「人穴」ですが、結論から言えば前者です。少なくとも私にとっては。

富士塚が気になると、それを造った富士講が気になる。富士講を知るとその源流が気になる。富士山信仰は古来からあったけれど、富士講に受け継がれる教えを唱えた「角行」ゆかりの地は、やはりスペシャル。ここが原点だからです。





前方に「冨士浅間大神」の碑と玉垣があり(大日堂は森の奥にある)、手前下方に穴が口を開けています。幅3mほどの穴の入口です。



中は80mほどの長い洞穴です。歩いたルートを点線で示しました。左側通行です。ずっと奥には浅間大神の碑があるそうですが、3分の2くらいにある石像のあたりから右に迂回し、出てきました。



では、ひんやりとした地下の世界へ。



石段を下りきると、かがまなければ入れない低い入口でした。左の足元には石仏あり。



振り返ったところ。地上に続く石段が美しく印象的。



中は漆黒の闇でした。かなり涼しく、天井からは水滴が落ちてきます。写真に撮ったら岩肌は赤と黒。溶岩が冷えて固まった時の形状を残しています。前方奥に見えるのは、トタン屋根のついた小屋のような祠のような。。。



中にあったのは、この碑でした。新しめのものですね。上部に描かれた御幣は雲に乗っていて面白い。扶桑教元一心講社による御内院開闢(内院とは頂上の火口のこと)とある。おまけに北口登山。ここは富士宮ですが、いろんな信徒がやって来たのですね。

「いつもは蝋燭に火が灯っているんですけど、今日はひとつもついていないですね」とKさん。本当に真っ暗です。「ここから左に進みます」



幅の狭い渡り板が敷かれてあるのでその上を歩きます。「落ちたら水の中ですよ〜」

やがて天井が高くなり、広さもあるのがわかるけど、とにかく足元が見えない。手持ちの明りは、小さなものがふたつだけ。4人は離れないよう気をつけながらゆっくりと進みました。落ちないように滑らないように、牛歩のごとく。

明りがないのは、この闇に溶け込むいい機会となりました。短時間で行者の気持ちにふれるなんてことはありえないけれど、闇の中にいる意味が何となくわかってきました。

この空間に入って、まず私が感じたのは安堵感。暗くて湿気が多いのに、恐怖感が全くない。いきなり「居心地いいですね〜」と発した私でした。でもまあ、たったひとりで闇の住人になったなら、恐怖心と闘うことになるのだろうけど、それはいずれ解消されるはず。なぜなら、漆黒の闇では自分が生きているのか死んでいるのかわからなくなるから。そして、生死の境界は問題ではなくなり、精神的レベルで問答を繰り返し、やがて地球の声を聞くことでしょう。それは創造主の声に違いない。



しばらく行くと、岩山のような盛り上がりがありました。その上のほうに石像が。遠くて見えず、暗くてわからず。落下する水滴が白く写っていました。



ここからUターン。岩の間を手探りで向きを変えます。「滑らないで〜」

帰路、闇に慣れてきた一行はおしゃべりをする余裕が出てきました。

「角行さん、『立ち行』って一日に何度か分けて立っていたんだよね?」
「たしかそう」

角行は、四方4寸5分の角材に乗って爪先立ち1000日の行をしたと言われていますが、伝説の域を脱しない数字なので、今まであまり考えていなかったけど。

なるほどね。ラマダンだって丸一日中断食するわけじゃないし……と納得する私。
身体を通して精神を鍛練する修行は、信仰のなせる業であって、人に見つめられながら挑戦するギネス記録とはわけが違うのだ(笑)。一過性の記録挑戦が目的ではなく、継続性が必要。だから身体を壊しては何も生まれない。

さあ、地上に戻るわよ。





やはり光はありがたい。



太陽が嬉しい。



生還する喜びは、闇をくぐったからこそ。



境内に戻ると、式典の行われていた墓碑群の一角はきれいに片づけられていました。



そこは、ぽっかりと太陽が注ぎ込む浄土の領域。地下で見たのが陰の浄土なら、ここは陽の浄土だ。

信徒たちがこの聖地に引き寄せられたのがよくわかるようでした。


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プロフィール
HN:
芙蓉庵 (Yoko Arisaka)
性別:
女性
自己紹介:
▼▼▼【富士塚】とは▼▼▼
…………………………………
富士山に登りたくても登れな
い人たちの為に、江戸時代に
関東各地に造られた「人造富
士山」のこと▲です。富士山
を信仰する▲▲▲富士講によ
るもので▲▲▲▲▲したが、
地元に▲▲▲▲▲▲▲ミニチ
ュア▲▲▲▲▲▲▲▲▲の富
士山が出来たことで、多くの
人が登山でき、大流行しまし
た。民衆のパワーですね♪♪
富士山の溶岩をのせ、一合目
から頂上まで登れるようにな
っています。意外なところに
ひっそりたたずんでますよ。
…………………………………

▼▼▼【芙蓉庵】とは▼▼▼
…………………………………
美しい作品も好きだけど、コ
ンセプトありきで表現するこ
とに喜びを感じるビジュツ家。
表現形態はこだわりません。
現在、富士塚のコンセプトに
インスパイアされ、色々な媒
体で表現。著書の【ご近所富
士山の謎】【富士塚ゆる散歩】
も、私にとっては作品です。
なぜ富士塚か……それは、海
外生活での体験から。詳しく
は本のあとがきに記してあり
ます。

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