▲「富士塚」だけで日記が書けます♪▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
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フランス語で Train Vert は「緑の列車」という意味。

「トランヴェール」は、JR東日本エリアの新幹線(東北・山形・秋田・上越・長野)の座席に搭載してあるフリーマガジン(月刊)です。

昨年4月号には、富士山特集が組まれ、特に富士山信仰に関する記事が充実していました。噂には聞いていましたが、残念ながら私は手にしたことがありませんでした。

ところが、特集の部分だけカラーコピーに撮って、きれいに製本して、わざわざ私に送ってくださった方がいます。



富士塚マニアのクライマー、E様は、インターネットをされないので、私のブログも読まれていませんが、なぜか私の心を読んでらっしゃるかのように、いつも驚きのタイミングで、私が欲しい貴重な資料をくださいます。今回も、トランヴェール2008年4月号が読みたい!と私が思っていたところでした。



特集の中、特に御師に関する記事は貴重です。



中里講社の方たちが常宿にしている上文司(じょうもんじ)家や、よく知られた大国屋、保存されている外川家宅、小佐野家宅のこと。そして、



筒(づづ)屋での、お焚き上げの様子。などなど。

なぜ、トランヴェールが今読みたかったか。それは、8月26日の富士吉田の火祭で、筒屋さんにお世話になるからです。先日、現地のK様から「筒屋さんやお焚き上げのことは、トランヴェール2008年4月号に出ているんです」とお聞きしたからでした。

なので、このタイミングはとてもラッキーでした。K様とE様に心から御礼申し上げます。

さて26日は、大松明が夜空を焦がす壮大なお祭りも見物ですが、



昼間も素晴らしい行事が満載です。これは、北口本宮富士浅間神社の中の諏訪神社での御動座祭。赤いのが「お山さん」です。この後、町にくり出します。

そして、貴重な体験、先達による「塩加持」は、


こんな感じ。くわしくはまた。
8月以降はこの火祭ツアー(1泊)に専念することにしました。こちらもくわしくはまた。

これはツアー会社を介さず、ごく少数(ただの観光ではないので、基本的に私と交流のある方もしくは儀式に興味のある方に限定)で参ります♪
去年のことです。鉄砲洲稲荷神社を訪れていた時、築地の「波除(なみよけ)稲荷神社」から「○○が足りなくなったので分けてもらえませんか?」と人が来ました。○○は伏せておきますが、同じ稲荷神社/同じ中央区つながりということもあってでしょう、共通(共有)の頒布物を借りに来られていたことが、ちょっと面白かったです。でも、こんなことは案外珍しくないかもしれませんね。

さて、ツアーはご年配組と非年配組に分かれて解散。喉が乾いた非年配組は、冷たい物を求めて散策の旅に出ました。向かった先は築地。

ムシムシした気候ながら、まだ日は高く、歩くのも楽しい♪ まったり散策は、佃大橋の西を通り、一向は築地にさしかかりました。 休憩場所を探しつつ、途中、祭りに遭遇し、その発信場所が波除稲荷神社であるとわかりました。



私はかねてから、波除稲荷神社もよく参拝しています。「やはり御縁があるかも♪」と密かに思いながら、皆で縁日の屋台でつまみ食い(飲み)。

かき氷、美味でした♪

神社の境内は狭いですが、巨大な獅子頭が鎮座しています。とにかく、とにかく、デカいのなんの!

弁財天お歯黒獅子

厄除け天井大獅子

今年は陰祭りですが、この日は、夏越し(なごし)大祭『つきじ獅子祭』の初日。翌日には上の2獅子以外にも、社宝である「金獅子」も担がれるとのことでした。そんな巨大なもの、担いで歩けるの〜!?



本殿では、古式ゆかしい舞が始まりました。どんなストーリーかはわかりませんでしたが、皆、その所作の鮮やかさ、表情の豊かさにくぎづけになりました。



↑私は、この髪の束ねを真似してみたいと観察中。

次第に人が集まってきました。明神神輿も帰って来ます。



やたらカッコいい(ご高齢の)カメラマンが目につきました♪

「災難を除き、波を乗り切る」ために善男善女が参拝する波除稲荷神社です。ここの祭りに遭遇しただけでもかなりの御利益があったハズ。ありがたや♪ありがたや♪


★ 追加 ★



↑頑張っています!!!
築地の人達は、いや、多くの人が移転を反対しています。私も!

「築地市場を考える会」にも出てますが、

今週の27日(土)にデモ行進があります。
これは都議会議員の選挙に『築地のことは口にするな。無視すべきだ。』との
指令が党より候補者に出されたことに抗議するデモ行進だそうです。
中央区にあるただひとつの富士塚、鉄砲洲富士はこんなに急勾配です。



平均45°ですが、場所によっては60°くらいありそうです。



山は、登るよりも下りるほうが困難ですね。ここに何度も訪れている私でもヨタヨタであります♪



さて、頂上にある奥宮です。 今まで気づかなかったふたつのこと。



屋根のすぐ下に見えるのは丸藤講の紋。

そして祠の台座にあった富士山型の物体!

↓左





↓右





半透明の合成樹脂に白いマットな塗料を塗った感じです。
何でしょう?何でしょう?
明らかにどこかの装飾に使われていたものだとわかりますが。。。
う〜ん。う〜ん。神社に問い合わせようかと思いましたが、顔見知りの宮司さんが不在だったのであきらめました。でも、ナゾが増えると楽しみも増える♪

楽しみはとっておきましょう。



鉄砲洲稲荷神社を出ると、こんなメッセージが飛び込んで来ます。
はい。親様ご先祖様には、この命をいただきまして本当に感謝しております!
それは、富士山信仰の原点でもあるのです。

しかし、トホカミエミタメ(遠神恵賜/吐菩加美依身多女/吐普加身依身多女)は、呪詞であり祓詞であり。。。アマテラスオホミカミと並んで、復古神道のための言霊でもあるそうです。“鎮魂行法”として「鎮魂」状態に入るための言葉とも言われますし、また、森羅万象をあらわしているとも言われます。とすれば、富士講の教典にも通じるところがありますね。(調べてみます!)


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通称【モンナカ】。
地下鉄の門前仲町の駅を出て、



深川不動尊に続く「人情深川ご利益通り」を歩くと、自然と足並みはゆったりしてきます♪



お不動に入るとすぐ左手に、ダイナミックな龍の待つ手水舎があります。その傍で、御祈祷が始まりました。鮮やかなオレンジ色の袈裟を纏った僧侶が儀式を終え、法螺貝を吹きながら本堂に向かいました。(顔を紅潮させてますが)いい音色です!

深川不動尊は個人的にも好きなお寺なので、よく訪れます。不動明王が好きなこともありますが、運良く護摩焚きに遭遇すると、その迫力に全身の細胞が活性化される感じがするのです。(流行りの言葉を使うと、神社が草食系に比べ、密教系寺院は肉食系な印象です。宗教的には逆なのですけどね〜)
お護摩修行は毎日あります。(9時、11時、13時、15時、17時)

ちなみに、内仏殿の奥はオススメです。自分の干支の御真言を覚えたり、ゆったり歩くと心が落ち着きます。また、2階の「四国八十八箇所の巡拝所」は、ブラックライトを駆使した空間で幻想的です♪

お不動の南側を東に向かって歩きます。富岡八幡宮の手前あたり、

↓その昔、深川八幡富士はこんなに風流でした♪(奥の築山です)
富士塚の上に人々が登っているのが見えます。
これは広重が描いた「名所江戸百景」の一枚、「深川八まんひらき」。



富岡八幡宮の別当寺である永代寺は、当時かなり広い敷地を持っていました。現在の深川公園あたりまであったそうです。深川八幡富士は寺の持つ庭園の中にあり、春の一時期(3月21日〜4月15日)庶民にも開放されたので、庶民は季節の花を愛でながら富士塚登拝も楽しんだようです。この絵の「ひらき」というのは、お山開きのひらきでなく「庭園開放」のひらきの意味ですね。

(「門前仲町」とは「永代寺の門前町」ってことです)

そして、富岡八幡宮の中のコレ。



2002年に再築されたモダン深川八幡富士です。ちっさ〜い♪
(昔の富士塚は、昭和40年に取り壊されました)

深川八幡富士を訪れたら、今の富士塚をあれこれ語るより、深川の町全体を楽しむのがいいと感じます。この界隈は本当に魅力的なところです。
昔を覚えてらっしゃる方が言いました。「新内流しはよく見ましたよ。永代通りに沿って流れる川をゆく船に向かって、柄のついた網でご祝儀を渡すんです」


★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★


かつて目の前が海だったところにも、富士塚がたくさんできました。(数千年前の地図ではもちろん海の中)



砂町富士のある元八幡(富賀岡八幡宮)だって、江戸時代は水のそば。このへん一帯がよく水をかぶるので、この八幡様が深川に移って富岡八幡宮になったと言われています。そんなお話をしながら登拝しました。



「この富士塚も昭和になって30mほどずらされたそうです」
「ずらすって!? それは大変ですよね」
「建築物の移築のようにはいきませんから、いったん石造物を下ろしボク石を外して山を解体したのでしょうね」
「それは大変な作業でしょう」
「かなり改築費用もかかったそうですよ。このようにお金を出した人の名前が石碑にいろいろ刻まれていて。。。」
「ホント、たくさん書かれていますね」



私のお気に入りは、右の赤い三角の講碑。よく見ると、そばの力石や他の石も赤い。これは人為的な着色?それとも焼けて変色したのでしょうか?砂町に住んでらした方によると、このあたりは戦災にあったとか。でも、昔富士塚のあったところはまわりが農地だったはず。う〜ん。ナゾは深まります。。。

砂町富士のいいところは、こんなに大きな塚なのに裏側までぐるりと歩け、一周できること。アングルが変わると、頂上から続く深い溝や別の登山道(下山道)が見えたり、宝永山の位置を確認できたり、また、塚に生えてる植物を知ることができたり、といろいろな観察できます。

概して、リストを持って富士塚をめぐる方たちは(スタンプラリーのように)、富士塚を見つけると満足しすぐ次に移動されますが、それだけではもったいない気がします。そこから富士山がどのように見えたかとか、塚の面白さを観察すると、愛着がわき、有り難みも増してくるってもんです♪

この後、電車に乗って移動しました。つづく。


★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★


字名が富士山といううらやましい住所をお持ちのK様には、いつも大変お世話になっております。彼女の七つ道具のひとつに、マグネット指し棒があります。「これを持っていると富士塚でボク石(溶岩)を説明する時に便利なんですよ」と1本くださいました。大変重宝しております。本当に感謝です♪



ふと、自分の持っている溶岩の磁力を確かめてみたくなりました。黒い溶岩より赤いほうがよく吸いつくようでした。丸い磁石の直径が13mmですから、この溶岩がけっこう強い磁力だというのがおわかりでしょう。



富士塚のオブジェをつくり始めた頃、溶岩と小石を集めていました。溶岩は伊豆大島三原山で採取。これらはほんの一部で、大きなものはまだまだあります(笑)。ヘリコプターや船も使って運んだのでした。小石は房総の海岸に通っては拾っていました。石碑や石段の表現に。



大きさや形で分類してますが、このへんは烏帽子岩用ですね。いいカタチのものはほとんど使ってしまったので、これらは予備軍。先日、打ち合わせの際ふとこれらのことにふれたので、帰宅後、久しぶりにひっぱり出してみたのでした。

最近渇望していることといえば、手を動かす作業。今は小石は使いませんが、これらを見ていたら無性に石拾いをしたくなりました。



えいっと出かけたのが、東京湾に浮かぶ人工の渚。葛西臨海公園内、海浜公園の西なぎさです。ぽっかり浮かんだ島なのです。臨海公園から橋を渡って到着です。

でも海を見ていたらそれで充分満たされ、石拾いよりもこのシチュエーションを味わうことにしました。そしてしばらくビーチにて、考え事を組み立てたりノートに書いたりしていました。

ちなみに、ここから見る東京湾はあまり日本を感じません。なぜだろう。(私はずっと南米の海岸のことが気になっていました)



ふと西を見ると、男性がひとり、やはり考え事をしているようなたたずまいで、波打ち際をゆっくり歩いていました。あの人がもし宮沢賢治だったらこの海岸を何と名づけただろう、なんて想像して楽しくなりました♪



渚の西端はこんなです。富士山はやや左寄りの前方です。日没ならば見えるはず。でも、ここは5時には閉園されるので、もう帰らなきゃ。



名前はわかりませんが、パンパスグラスのような、背の低いススキ科の植物が群生していました。心地よい風にふかれ穂先はまるで羽毛のよう。ふわふわとなびいて、淡く金色に光っていました。そして、それにしがみつくのはテントウ虫。驚くほどたくさんいました。

この光景は飽きません。何時間でもいられそうでした。



宮沢賢治もお帰りの様子。捜し物はみつかったでしょうか。。。

私もいくつか見つかりました。自分との対話、そしてフォーカスすること。それは時として広い空間(自然)の中でなければできないこともあります。最近こういう時間が持てなかったけれど、これはとても大事なことでした。



橋を渡って公園に戻り、東側を歩きました。目の前には「舞浜富士」であるプロメテウス火山の姿。浦安です。海から見るのは初めてかもしれない。

舞浜富士は、築造の途中をよく見ていました。今よりずっと富士塚っぽかった(笑)。でも、アミューズメントパーク内の人工火山とはいえ、実はとてもパワフル。先日、本当にそこにパワー(気)が宿っていると知りました。



こんなラブリーなポピー畑を歩いたり、



野鳥観察の沼から夕陽を眺めたり、かなり歩きました。

自然にふれるのは都会の中でもできます。車がなくてもできます。自分が、自然に対してある種の意識を向けなければなりませんが。。。でも早く富士山に行きたい♪



沈みゆく太陽は、ビー玉でした。
私の「メタル富士」を下山する人みたいな。
音羽富士にて打ち合わせ。いや、ある番組のディレクターさんに体験登拝(笑)をしてもらいました。



これは頂上から見下ろした図。私たちは正面の登山道から上がってきました。すぐ目の前には烏帽子岩。富士塚の下で、若いお坊さんたちがキャッチボールしています。楽しそうです。

音羽富士は文京区の護国寺の中にあります。お寺の中に富士塚が残っているのは東京では珍しいですが、江戸名所図会には描かれています。



現在の位置は違いますが。。。

護国寺には、新田次郎の小説「芙蓉の人」でもおなじみ、野中 到と妻千代子が眠っています。



明治時代、野中 到は、高地での気象観測の必要性を説き(例えば、ペルーのエル・ミスティ=ミスティ山のように海外ではすでにあるのに日本でなぜ行なわれていないのかと)、富士山頂の剣ケ峰に私財を投じて日本最初の富士気象観測所を建設。そこで妻千代子と共に、冬期気象観測をしました。明治中頃のことです。これが「富士山頂観測所」のきっかけとなり、のちの富士山測候所にもつながったわけですね。小説を読むと、山頂での壮絶な情景が目に浮かび、胸にこみ上げるものがあります。

ちなみに、エル・ミスティとは、ペルーの日系移民の方たちから「ペルー富士」と呼び親しまれている山ですが、この頃まだペルーへの移民は始まっていません。

とにかく、護国寺は富士塚があるだけでなく、野中夫妻を通して富士山と御縁があります。

再び頂上。お宮の手前に「御頂上 大石」の石碑があります。植木職人からの奉納です。



どっしりとしたその石は、何となく山の形っぽい。また、少し下ったところにある、



これを見た時、「あれ?どこかで見たカタチだ♪」と思いました。

←浅久保富士の碑

「ふじの山 夏雪の水をそろの木に 金名水も開く」という歌が刻まれたヤマキチ講のものですが、音羽富士のその碑は何が彫ってあったのでしょう。斜面から落ちそうだったので、チェックしませんでしたが。

それにしても、ほかにもどこかで見た、このL字型の石碑。(近いのは目黒新富士にあります)
富士山を連想させるような三角の石が使われることはよくありますが、これはちょっとユニークですね。横長だし。山型の下に文字のためのスペースがついているし。

確かまだまだありました。う〜ん。どこだったでしょうか。気になります。
6月3日は千駄ヶ谷富士のお山開きです。多摩川富士から皆さんと電車を乗り継いで、参りました。



鳩森八幡です。今年は何だか静かな境内。



提灯に明りが灯りました。儀式は午後5時から。



私はこちらの氏子でないのですが、
(「ご近所富士山」の執筆の際、お世話になった)宮司さんにご挨拶したら「せっかくだから、玉串奉奠(たまぐしほうてん)に参加してってくださいよ〜」と言われ、「それでは喜んで♪」とちゃっかり。(ちなみに宮司さんは平岩弓枝さんの義理のご兄弟なのです)



神官に続き、区議会議員さん、氏子さんらがぞろぞろと。。。



頂上に向かって鮮やかな提灯が飾られています。



玉串奉奠は、正面の石橋を渡って左の里宮にお供えし、すぐ下山しますが、



その後の一般登拝では、里宮の横を歩き、裏側から頂上へと登って正面に下ります。



裏の小御嶽わきから急な斜面を行くところです。
奥宮に向かって手を合わせる女性が見えます。
コントラストを効かせたのでわかりにくくなりましたが、左側にとても大きなオーブが写ってます。富士塚は、こうして大勢の方にお参りされるとメッセージを送ってくるのです。ちなみに、私の背後には樹齢400年の御神木が立ち、この塚を覆っています。



ちょうど持ち合わせていた富士講の法被を着て、神社の方とポーズを取ってみました。



私の隣のOさんも、個展を開く画家であります。



これは、2年前の私とOさん。なんと、私は同じ和風アロハを着ていたんですね〜。


★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★


ツアーに参加された方に、感謝と御縁のしるしにお土産をお渡しすることがあります。



必ず配布する各富士塚の資料とは別に、
古地図風富士塚分布図(その日登拝の富士塚に色づけしたものとか)や、
コースに合わせて町歩き情報モロモロ。



そして、お札(ふだ)とかも。



お札は浅間神社のレプリカでミニサイズ(いい和紙使ってます)。富士山の浅間神社に行けないので、私がかわりにこしらえてます。まるで先達さんがするように(笑)。

紙にあるのはイメージのみですが、【富士塚にお参りすることによって神様が降りてきてリアルなお札になる】というコンセプト。 遊び心のあるアートで始めましたが、お札のいただけない神社に行くことも多いので、喜ばれています。(そしてそれは実際、リアルなお札となるようです)

その他私にしかできないものいろいろ♪
いつも何かしらお渡ししてますが、何が出るかは私の気分次第♪

【楽しくなければ御利益ない♪】


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多摩川浅間神社の南側車道は、東急多摩川線の踏切りを越えると、



「富士見坂」と呼ばれる坂道になります。



古い「街区案内図」や「掲示板」も建っています。



昔は、多摩川駅は多摩川園駅という名でしたし、東急の沿線名も変わっています(2000年8月6日 目黒線と多摩川線に分割され、目蒲線は消滅。多摩川園駅を多摩川駅に改称)。



坂マニア、また富士見坂マニアも多いでしょうね。数ある富士見坂のうち、いくつの坂からまだ富士山を拝めるのでしょうか。

坂を上ると左手の森がなかなかいい感じ。
この富士見坂は「大正末期頃から行なわれた耕地整理によってできた」そうです。もちろん、ここから富士山がよく見えたというからその名がつけられたのですが、現在は坂のまわりは建物が密集し、富士山はおろか多摩川も見えません。でも坂道に立てば、富士山の方角が簡単にイメージできます♪ 「ああ、あのマンションの住人はきっと見えているんだろうな〜」「い〜な〜」



上りつめたところは閑静な住宅街。
富士見坂は多摩川沿いに他にもあります。なんたって富士山がよく見える一帯ですから♪

それから、多摩川駅に入る前に10分だけの寄り道。



多摩川台公園のあじさい園から昇り、亀甲古墳の手前まで散策しました。



この地域は、その昔、多摩川の水を汲み上げて飲み水を供給していた「調布浄水場」を利用して造られました。当時の形をできるだけ残し、池には湿性植物が植えられてます。

とても気持ちいい空間で、思わぬ道草にハッピ〜になれます♪ オススメ。


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プロフィール
HN:
芙蓉庵 (Yoko Arisaka)
性別:
女性
自己紹介:
▼▼▼【富士塚】とは▼▼▼
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富士山に登りたくても登れな
い人たちの為に、江戸時代に
関東各地に造られた「人造富
士山」のこと▲です。富士山
を信仰する▲▲▲富士講によ
るもので▲▲▲▲▲したが、
地元に▲▲▲▲▲▲▲ミニチ
ュア▲▲▲▲▲▲▲▲▲の富
士山が出来たことで、多くの
人が登山でき、大流行しまし
た。民衆のパワーですね♪♪
富士山の溶岩をのせ、一合目
から頂上まで登れるようにな
っています。意外なところに
ひっそりたたずんでますよ。
…………………………………

▼▼▼【芙蓉庵】とは▼▼▼
…………………………………
美しい作品も好きだけど、コ
ンセプトありきで表現するこ
とに喜びを感じるビジュツ家。
表現形態はこだわりません。
現在、富士塚のコンセプトに
インスパイアされ、色々な媒
体で表現。著書の【ご近所富
士山の謎】【富士塚ゆる散歩】
も、私にとっては作品です。
なぜ富士塚か……それは、海
外生活での体験から。詳しく
は本のあとがきに記してあり
ます。

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