▲「富士塚」だけで日記が書けます♪▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
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「富士塚に登る」=「リモート富士登山」です。

富士山の神様を降ろしたことで、富士塚は、そこから富士山へ祈念を飛ばせる送信所となりました。



ただのミニ富士でなく、ネットワークで富士山と繋がる聖地となったのです。

したがって、富士塚に登拝するということは、概念的に、富士山に登っていることと同義なわけです。










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世田谷区松原に、かつて「松原富士」がありました。



富士講も属することが多い「扶桑教」の本庁境内でした。
(本庁は大正8年に芝神明町にあった旧地から遷され、富士塚は昭和7年に再築されました)

東京大空襲で解体したので、かつての富士塚を見た人はあまりいないでしょう。記録によると、芝にあった富士塚が19m(富士山の200分の1)だったのに比べると、昭和の富士塚は10mほどに縮小されたそうですが、それでも大型だったのですね。



この度、新新富士塚として、「まつばらのお冨士さん」が再築されることになり、今年の夏には披露されます。現在はまわりの住宅に囲まれていることから、4m程度の規模になるそうです(建築基準により)が、再築されるのはうれしいことです。



4月1日、鎮地祭(=地鎮祭)があり、御法家館長、高尾山修験部長、ロッキー田中さん、野口健さん、富士山クラブ理事の青木さん他、めったに集結できない方々も大勢いらっしゃいました。丸伊講の斎藤先達、丸藤宮元講社の井田先達、萬福講の生沼先達はもちろん、横浜の大先達 鴨志田与右衛門の末裔の方も列席されました。















かつての富士塚に建てられていた講碑の数と種類は驚きです。再築の際に動かされるでしょうから、今のうちに必見です。境内にあります。


























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多忙により、ブログ記事がはなはなだく滞っておりました。

今年は、久しぶりに東京(7/1)と千葉(7/16)で
ディープな富士塚巡りをしたものの、なかなかまとめられずにいます。
(それ以前のネタもたくさんありますが。。。)

時系列でアップするべきですが、すごいニュースがあったので、
それらをすっ飛ばして記事にしてみます。

見出しにあるように、初山祭りが静岡にあったという事例です。

久しぶりに実家に行った際、こんなものを見つけました。



神棚のある部屋に立てかけられていた「初山祭り」の団扇です。

私は仰天しました!
初山祭りは「ご近所富士山の謎」にも記載した内容ですが、
2008年に栃木と群馬の初山祭りの取材以来行ったことがなく、

記述(p217)にあるように、
「初山は、東京と神奈川にはなく、埼玉、千葉、群馬、栃木、茨城の関東のみ」
が通説です。

また、「ご近所富士山の謎」の刊行後にお目にかかった、
初山研究の第一人者である中嶋信彰先生からいただいた「埼玉民俗」にも、





「初山を富士浅間信仰と結びつける習慣は、栃木、群馬、埼玉、千葉に限られている」
と書かれています。

ところがところが!

この度、静岡にもあったことが、この団扇によって証明されました〜〜〜!

画像の団扇は、私が小学生の頃に住んだ静岡で静岡浅間神社の祭りで
いただいたものだそうです。

記憶力のよい母と妹はその時の記憶があるそうですが、
私には記憶がないのがとても残念です。

とはいえ、私も初山祭りに出向いたのは確かなので、
富士塚と富士山信仰に興味を持つずっと以前から御縁があったことに
ほかなりません。

拙著「ご近所富士山の謎」の初山祭りの記事を、再び読んでみたところ、
「東京と神奈川にはなく、埼玉、千葉、群馬、栃木、茨城の関東にある」
とあるものの、「関東以外でもあるかもしれない」と余裕を持たせています。

執筆当時は、何の確証もないまま「関東以外でもあるかもしれない」と
書いたのですが、そう書いたのは7年後の自分に宛てたメッセージだったのか?

いずれにしろ、
「初山祭りの祭事が、関東以外にもあった」ことの証拠となり、
私にとっては今年一番のトピックとなりました♪♪♪






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今年はもろもろ忙しくて、富士塚を訪れてもアップできていないものが多いです。
時間は経っていますが、これからでも少しずつ!

夏に、中央区の4富士塚を訪れた日がありました。
と言っても、4つのうち現存するのは「鉄砲洲富士」だけで、他は跡地です。

【小網富士(跡)/茅場町富士(跡)/八丁堀富士(跡)/鉄砲洲富士】



マップ上に落とし込んでいるのは、以下の4富士。
(跡地は黒字、現存は赤字です)

1 小網富士(跡):中央区日本橋小網町4-9 明星稲荷神社
2 茅場町富士(跡):中央区日本橋茅場町1-6-16 山王日枝神社
3 八丁堀富士(跡):中央区八丁堀3 天祖神社
4 鉄砲洲富士:中央区湊1-6-7 鉄砲洲稲荷神社

では、ひとつずつ。

1【小網富士(跡)】
富士塚があったと思われる明星稲荷神社は、





昭和の匂いが濃い、喫茶店パピヨン横から参ります。



極小サイズの神社です。社殿は以前と向きが変わったようです。
数年前の小網町町会会館の建て直しの際に再建されたと思われます。
ここに富士塚があったとしたら、どんなだったのでしょうね。

2【茅場町富士(跡)】
茅場町富士は、かつて山王日枝神社にあったそうです。





「武江年表」(江戸名所図会を書いた斎藤月岑による)の文政年間記事に、
↓こんなくだりが出ています。

「深川永代寺、鉄砲洲稲荷内、茅場町薬師境内等に、石を積みて富士山を造る」



黄色く着色してみた3富士とは、
富岡八幡宮の別当、永代寺にあった深川八幡富士(現・富岡八幡宮境内浅間神社)、
鉄砲洲稲荷神社にある鉄砲洲富士、そして茅場町薬師境内の茅場町富士です。

江戸時代、山王日枝神社の境内には天満宮と薬師堂があり、
薬師堂のことを「茅場町薬師」と呼んでいたのです。
明治6年に薬師堂は境外地に遷されましたが、東側に智泉院として健在です。
(薬師如来像が拝めます)

ちなみに、東都名所図会にある記述は、
「浅間神社。本社の右側に在り、鳥居に三國第一座と題せる額面あり。
丘上に小祠を安置す。文政年間、岩石を堆積して築く所」

山王日枝神社の御由緒によると、相殿の中に「浅間大神」あり。
関東大震災の後、昭和3年に社殿が造営された際、本殿内に合祀されたそうです。
あ、今でも浅間祭(7月1日)が催されているとのこと!

3【八丁堀富士(跡)】
八丁堀富士は、天祖神社にあったと考えられます。





とても小さな神社でした。ちなみに、富士塚は昭和初期まであったそうです。

境内に塚の雰囲気はないですが、大量のボク石(溶岩)が配置されています。
(庭石に使用されたボク石とも考えにくい。どうでしょうか)







4【鉄砲洲富士】
鉄砲洲富士は現存しています。



いつ見てもホレボレです♪



残念ながら、今は7月1日のお山開きの時にしか登拝できませんが。









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日本橋三越本店を拠点に、若い世代に文化を発信する
日本橋 街大學が、来月開校します。

先日、開校式が行われました。→その時の様子

↓画像をクリックすると、【日本橋 街大學】のサイトに飛びます。



私も3回ほどレクチャーさせていただきます。
↓こんな絵解きを使いながら。













などなど。

こんな図や↓



こんな図を使いながら↓



フィールドワークに出かける予定もあります。

そのほか、盛りだくさんのクラスです。



お申し込みは→こちらから

お待ちしております。









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丸の内朝大学の皆さんと一緒に、吉田古道を歩き、
4合5勺にある、御座石(ございし)を拝みました。



御座石とは、神の依りつく石という意味があるとのこと。



あ〜んな高いところに彫ったんですね!

「ほら、日本橋の文字が見えますね」と私。

すると、Tさんが気づきました。
「あれは、鰹節のにんべんの屋号では!?」



おお、たしかに!
日本橋にある老舗、にんべんの商標「イにカギ(金尺の形)」です。
創業者である伊勢屋伊兵衛の「伊」(名字と名前につく)から取った
「イ」(にんべん)ですね。

ちなみに、伊勢屋伊兵衛の本名は高津伊兵衛ですが、
勢州(現・三重県)出身だったので、伊勢屋伊兵衛としたそうです。

御座石に彫り込まれた「にんべんマーク」の下に青木とあるのは、
従業員の中にいた、富士講信徒、青木さんの名でしょうか。

くわしいことはわかりませんが、手持ちの資料、
「富士吉田市上吉田地区石造物調査報告書 上吉田の石造物」



を開いてみたところ、



魚がしに携わっていた(つまり鰹節業つまりにんべん?)
「山三講」の青木という人物らしいことがわかりました。
おそらく、青木駒作さんでしょう。

山三講マークの下の、(右から読んで)「三夜」は
二十三夜講のこと。富士塚で見かける石碑にもよく刻まれています。

石工は佐野平作さんですね。

山三講は、富士講の中でも比較的古い講で、
山口三左衛門なる人物が、渋谷の山吉講から分かれて起こしたもの。

元講は麻布にありましたが、枝講は、赤羽橋(港区)、芝金杉、
堀江、日本橋、新橋と広く、千葉県の館山、富浦、千倉や、
川崎の一部にもあった富士講です。

日本橋の山三講、きっと羽振りがよかったのでしょうね。
そんな気がします。

なんか最近、日本橋に御縁が多いです。
詳しくはそのうちに。。。







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足利の富士塚めぐりレポは終わりましたが、ふたつばかり追記します。

まずひとつ。
大月町東耕地の仙元宮の「赤富士御影」にある人穴について。



↓私もメモっていますが、人穴の凹部分には黒く塗られた痕がありました。



材料は、墨かもしれませんし黒漆かもしれませんが、
いずれにしても、これは単に暗闇を現したとは思えませんでした。
それだけくっきりと黒くしてあるのです。
私は、何かを燃やした痕の表現ではないかと推測していましたところ、

今回、女浅間を訪れたことで、以前訪れた男浅間を思い出しました。



男浅間の中腹には洞窟がありました。

看板によれば、修験者がこの入り口で加持祈祷をしたため、
その炎によって天井の岩が焦げたとされています。



ということは、赤御影の人穴に塗られた黒い部分は、
この男浅間の洞窟の「コゲの表現」ではないでしょうか。

赤御影の制作年は明らかにされていませんが、江戸時代です。
ということは、男浅間の洞窟内のお焚き上げも、新しくて江戸時代、
もしくはかなり古くから行われていたと思われます。

現在この洞窟は「胎内」と名づけられているので、
船津胎内(富士塚にも再現されている)を彷彿とさせなくもないですが、

赤富士御影に創られた洞穴が「人穴」だとすれば、
男浅間の洞窟も、胎内ではなく人穴の再現ではないかと。
(本物の人穴にはこのようなお焚き上げの痕はありませんが)

樺崎町堤谷に食行身禄像が祀られていたように、
足利でも身禄は、尊師として丁寧に拝まれていたとは思いますが、

加持祈祷を施す修験者がいたり、赤富士御影に人穴が現されていたり、
何より角行が行をした川があることから、
足利には南関東とは違う信仰があったことは間違いありません。

あと1回つづく。。。






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先にアップした足利市富士塚マップ内、★の位置は男浅間にありますが、
女浅間は、道路を挟んで少し北側。渡良瀬橋のたもとです(鳥居マークあり)。

森の中をずんずん歩いて登頂する男浅間に対し、女浅間は小さい。
規模で言ったら、品川富士や目黒富士、小山富士(松戸市)に近いでしょうか。



自転車を置いて鳥居をくぐり、振り返ったところです。
鳥居越しに渡良瀬川の河川敷、その向こう側には青い中橋が見えます。



歩きやすい登山道を登ります。
ペタンコ祭の際に、大勢の登拝者が登下山しても、ヨユウな広い道幅&低い段差。
当日は、乳幼児が主役の家族登山ですからね。



マップ看板です。女浅間は右上にあります。



ここがキッズの額に捺す御朱印の申し込み所。
兄弟姉妹が多いとセット料だとお得ですね。



拝殿への石段近くにあった看板です。これには龍神のくだりはありませんが、
私が2008年に男浅間に登った時、求めた麦藁蛇に添えられていた由来書には、

「かつて、大雨が続き渡良瀬川から大洪水が起こった時、突如龍が現れて、
下浅間神社の山に登った。龍は雲の中へ消えると、嵐がおさまり、
その頃流行っていた疫病も消えるように治ってしまった。以来、人々は
龍を『浅間神社の使い』として崇め、初山祭りに麦藁蛇を配るようになった」

とありました。
上浅間(上の宮)を男浅間、下浅間(下の宮)を女浅間と呼びますから、
祈りの発祥はここ女浅間なのです。

↓2008年の麦藁蛇です(男浅間にて)



では、お参りしましょう。



川上講と刻まれた水盤。大月町東耕地の仙元宮も川上講でした。



しっかりした作りの石段を登ります。結構、急!



拝殿に掲げられた扁額は、鮮やかな青にゴールド。



社殿が開放的なのは、ここでペタンコする(子供の額に捺印)からですね。

振り返ると、



こんな感じ。さらに、



本殿を目指します。お代官様田部井氏の末裔のお名前がありました。



拝殿(ペタンコ会場)と本殿の位置関係はこうです。本殿のある頂上には、



絵馬掛所が♪ どなたさまも健やかに!(キッズは日本の未来です)



頂上にあった石碑(山型ですね)には、初山の文字。
江戸時代から催されてきたこの祭りは、明治時代に最高潮だったでしょう。



本殿の玉垣下には「水行五年」!
こちらは卍講。正確には逆卍。(講には両方存在します)



安全性を配慮された下山道。沿道には、川上講と逆卍講が混在してますが、

三国第一山……三十三度大願成就

食行身禄クウ御霊前…烏帽子岩…

北口登山三十三度…

中腹に降りたら、まだありました。



山型の石碑は、





立派な小御岳石尊大権現!日輪月輪つき。
それにしてもこの富士山型はよくありますが、
ただの三角でなく一方が反り返っている部分は、
私は宝永山を表しているのではないかと思っています。



コミタケ碑の土台はしっかりしてた。
角を曲がると、お宮の見える位置までやって来ます。



その前に、もうひとつ拝所がありました。(これは何だったかな)
屋根の細工と色彩が斬新でした。



これで元に戻ったことになります(反時計回り)。



登って来たジグザグ道を降りれば、



WATARASE RIVERのサインが待っている。しかしこの「瀬」の字は???



何が釣れるのでしょう。渡良瀬川は結構いい釣り場のようです。
日の暮れるまで、何人もの釣り人が川につかっていました。

時間がゆっくり流れるいい町でした。自然豊かで、のびのびと。
日本最古の大学ができたのも頷けます。(勉強に集中できそう)

実は、まだつづく。。。





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さて、昨年秋に訪れた足利市の富士塚も最後となりました。
もう一度、今回訪れた足利市の富士塚マップです。



樺崎町馬坂の浅間神社から、国道293号を戻りました。
途中、菊屋本店で門前そばを食し(足利はお蕎麦も名物です♪)、



地元で「大日様」と呼ばれる鑁阿寺(ばんなじ)に寄ったり。





境内内の出世稲荷にお参りしたり。



足利学校には泣く泣く寄らずに。。。
市立美術館の横を走り、中橋(116号線の通る)を渡り、
最後にどうしても行きたかった「女浅間」へと急ぎました。

地図と上空写真をセットでアップします。



ピンクの☆マークをつけたところが「女浅間」です。
東武伊勢崎線を挟んで南側にあるのが「男浅間」です。
関東でも有名なこの足利浅間山は、
上浅間として男浅間、下浅間として女浅間。両方合わせて足利富士です。
こちらも他同様に、自然地形の富士塚と言えるでしょう。

かつて「初山祭り」で訪れた男浅間のことは、
こちら や、
こちら や、
こちら に書きましたが、

それらの記事にあるとおり、その時は男浅間しか行けなかったので、
(時間があればのオプションとしてだけど)今回楽しみにしていました。

東武伊勢崎線沿いに自転車を走らせて、渡良瀬橋の交差点に到着。



正面の山が女浅間山です。サインにバッチリと「初山ペタンコ祭」とある!
車道を横断しながら撮った写真は、



渡良瀬川にかかる渡良瀬橋です。左側の橋のたもとに近づくと、



車道の横には、人が歩いて渡れる橋が隣接されていました。
向こう岸、山の中腹に見えるのは赤い社殿の「織姫神社」です。

来た道を振り返ると、



右手が女浅間山。
向こう側に線路があり、その先にそびえるのが男浅間です。
そして、正面を向くと、



浅間神社(女浅間)の登山口となります。では、登山開始。



すぐ目に入る「ペタンコ祭」のサインです。

つづく。。。







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ひと月以上空いてしまったけど、足利の富士山信仰の続きです。
マップをもう一度アップ。



樺崎(かばさき)町の堤谷(つつみやつ)仙元宮から、
再び国道293号(黄色い車道)に乗り、時計回りに大きく
ママチャリをギコギコこぎました。

右手に樺崎工業団地、左手に樺崎八幡宮の入り口を見ながら
風を切るも、馬坂に入る頃から上り坂がキツ〜〜い!
まわりの風景を撮るヨユウもなし。汗だくでした。

越床トンネル近くにある浅間神社を目指しました。
樺崎町馬坂。(越床峠を越えると佐野市です)



トンネルから200m手前地点。車道の向こうは、



ダンプが出入りしています。
なんとハイキングコースの道も兼ねて! 仰天です。



上空からの画像でおわかりかと思いますが、
浅間神社の向かいに足利鉱山の敷地が広がっています。
ダンプは、石の採掘場から出て来たのでした。



歩道から数段上がると、鳥居と拝殿があります。水盤も。
これ以上後ろに下がれません。鳥居の内側から外を見ると、



こんなですもん。
神様はこの光景をどう思って眺めておられるのかな。





荒れて朽ち果ててはいますが、かなり立派。
右奥には、後ろに控えた山に続く道と小さな社が見える。
山の麓に浅間神社があるということは、山を富士山として
祀ってあるということでしょう。つまり天然の富士塚ですね。

よほど登拝をさせていただこうかと思いましたが、
(293号を走る大量の車と、採掘場を出入りする大型車の)
騒音が凄まじく、私は神様に向き合う気持ちにフォーカスできず、
「またいつか来させていただきます」
と挨拶し、今回は断念しました。

入り口近くにあった講碑は大きく、



富士登山三十三度……
(扶桑教とあるので、明治以降の新しいものでしょう)

この後、293号をまた走り、足利市街に入りました。
つづく。。。





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プロフィール
HN:
芙蓉庵 (Yoko Arisaka)
性別:
女性
自己紹介:
▼▼▼【富士塚】とは▼▼▼
…………………………………
富士山に登りたくても登れな
い人たちの為に、江戸時代に
関東各地に造られた「人造富
士山」のこと▲です。富士山
を信仰する▲▲▲富士講によ
るもので▲▲▲▲▲したが、
地元に▲▲▲▲▲▲▲ミニチ
ュア▲▲▲▲▲▲▲▲▲の富
士山が出来たことで、多くの
人が登山でき、大流行しまし
た。民衆のパワーですね♪♪
富士山の溶岩をのせ、一合目
から頂上まで登れるようにな
っています。意外なところに
ひっそりたたずんでますよ。
…………………………………

▼▼▼【芙蓉庵】とは▼▼▼
…………………………………
美しい作品も好きだけど、コ
ンセプトありきで表現するこ
とに喜びを感じるビジュツ家。
表現形態はこだわりません。
現在、富士塚のコンセプトに
インスパイアされ、色々な媒
体で表現。著書の【ご近所富
士山の謎】【富士塚ゆる散歩】
も、私にとっては作品です。
なぜ富士塚か……それは、海
外生活での体験から。詳しく
は本のあとがきに記してあり
ます。

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