▲「富士塚」だけで日記が書けます♪▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
世間では、パワースポットというよりミステリースポットとして知られている(知られていないかな?笑)「人穴」ですが、結論から言えば前者です。少なくとも私にとっては。 富士塚が気になると、それを造った富士講が気になる。富士講を知るとその源流が気になる。富士山信仰は古来からあったけれど、富士講に受け継がれる教えを唱えた「角行」ゆかりの地は、やはりスペシャル。ここが原点だからです。 前方に「冨士浅間大神」の碑と玉垣があり(大日堂は森の奥にある)、手前下方に穴が口を開けています。幅3mほどの穴の入口です。 中は80mほどの長い洞穴です。歩いたルートを点線で示しました。左側通行です。ずっと奥には浅間大神の碑があるそうですが、3分の2くらいにある石像のあたりから右に迂回し、出てきました。 では、ひんやりとした地下の世界へ。 石段を下りきると、かがまなければ入れない低い入口でした。左の足元には石仏あり。 振り返ったところ。地上に続く石段が美しく印象的。 中は漆黒の闇でした。かなり涼しく、天井からは水滴が落ちてきます。写真に撮ったら岩肌は赤と黒。溶岩が冷えて固まった時の形状を残しています。前方奥に見えるのは、トタン屋根のついた小屋のような祠のような。。。 中にあったのは、この碑でした。新しめのものですね。上部に描かれた御幣は雲に乗っていて面白い。扶桑教元一心講社による御内院開闢(内院とは頂上の火口のこと)とある。おまけに北口登山。ここは富士宮ですが、いろんな信徒がやって来たのですね。 「いつもは蝋燭に火が灯っているんですけど、今日はひとつもついていないですね」とKさん。本当に真っ暗です。「ここから左に進みます」 幅の狭い渡り板が敷かれてあるのでその上を歩きます。「落ちたら水の中ですよ〜」 やがて天井が高くなり、広さもあるのがわかるけど、とにかく足元が見えない。手持ちの明りは、小さなものがふたつだけ。4人は離れないよう気をつけながらゆっくりと進みました。落ちないように滑らないように、牛歩のごとく。 明りがないのは、この闇に溶け込むいい機会となりました。短時間で行者の気持ちにふれるなんてことはありえないけれど、闇の中にいる意味が何となくわかってきました。 この空間に入って、まず私が感じたのは安堵感。暗くて湿気が多いのに、恐怖感が全くない。いきなり「居心地いいですね〜」と発した私でした。でもまあ、たったひとりで闇の住人になったなら、恐怖心と闘うことになるのだろうけど、それはいずれ解消されるはず。なぜなら、漆黒の闇では自分が生きているのか死んでいるのかわからなくなるから。そして、生死の境界は問題ではなくなり、精神的レベルで問答を繰り返し、やがて地球の声を聞くことでしょう。それは創造主の声に違いない。 しばらく行くと、岩山のような盛り上がりがありました。その上のほうに石像が。遠くて見えず、暗くてわからず。落下する水滴が白く写っていました。 ここからUターン。岩の間を手探りで向きを変えます。「滑らないで〜」 帰路、闇に慣れてきた一行はおしゃべりをする余裕が出てきました。 「角行さん、『立ち行』って一日に何度か分けて立っていたんだよね?」 「たしかそう」 角行は、四方4寸5分の角材に乗って爪先立ち1000日の行をしたと言われていますが、伝説の域を脱しない数字なので、今まであまり考えていなかったけど。 なるほどね。ラマダンだって丸一日中断食するわけじゃないし……と納得する私。 身体を通して精神を鍛練する修行は、信仰のなせる業であって、人に見つめられながら挑戦するギネス記録とはわけが違うのだ(笑)。一過性の記録挑戦が目的ではなく、継続性が必要。だから身体を壊しては何も生まれない。 さあ、地上に戻るわよ。 やはり光はありがたい。 太陽が嬉しい。 生還する喜びは、闇をくぐったからこそ。 境内に戻ると、式典の行われていた墓碑群の一角はきれいに片づけられていました。 そこは、ぽっかりと太陽が注ぎ込む浄土の領域。地下で見たのが陰の浄土なら、ここは陽の浄土だ。 信徒たちがこの聖地に引き寄せられたのがよくわかるようでした。
式典では、管長による祝詞奏上に続き、茅(藤)の輪くぐりや、お米を蒸した蒸気による御浄め、稲穂を添えた玉串奉奠がありましたが、ある種オリジナリティーにあふれた儀式でした。
クライマックスは「御巻きくぐり」。 高く掲げられた何本もの巻物の下をくぐります。 そして、管長による 「ごうくうたいそくみょうおうそくたいじっぽうこうくうしん」(富士講の拝みでも必ず唱える御神語)と「幸あれ!」と祈願の言葉が、垂れた参拝者の頭(百会の位置)に振られました。 これはパワフル。御浄めをして空っぽになった体に、祈願の一撃をいただいた……という印象でした。 教義や修行の内容が複雑であっても、儀式はわかりやすいほうがいい。特に一般公開されるものは。その意味で、「お浄め・お供え・祈願」がビジュアルにも非常に印象的で、よそから参加する者にとって親しみやすかった。 「お浄め・お供え・祈願」は、私はネイティブアメリカンから教わった「3つの基本」でしたが、それらは信仰の種類に関係なく、真摯にお参りする心構えなのだと気づきました♪ それ以来、すべての所作に意味があり、有り難いことだと思えるようになりました。考えてみれば、その3つはわれわれも日常やっていることで、例えば神社では「手水でお浄め→お賽銭でお供え→そしてお祈り」ですね。 話がそれました。 御巻きとは、角行の真筆をはじめ2代〜8代までが記した巻物のこと。この日だけ、太陽の下に姿を現わしたお宝なのです。先人の富士山信仰の研究者たちが、血まなこになって見たがっていたものです。 私は宗教の研究家ではなく、体験を通して何かを造る表現者ですから、(文書の内容に関しては専門家にお任せするとし)、いつものように五感を研ぎすませようとしておりました。 すると、ちょうど私が御巻きくぐりをする時、頭上でカラスが激しく鳴き始めました。びっくりするほど大きな声で、それもしばらくの間です。 私にとってカラスは、何かを教えられる時にかぎって現われるので、忌み嫌うものではなく、ある意味「使者的存在」と受けとめています。この時は、何だろうな〜と思っていましたが。。。 頭上のカラスは、巻物の中の「御身抜」(ここでは「おんみぬき」と呼んでいました)に添えられている「三足烏」のことを意識せよと告げていたのかもしれません(笑)。 三足烏は、八咫烏と同義なのでしょうか。角行だけでなく、弟子たちも描き残しています。 式典の最後に、管長のお言葉。 「祝詞の中でも唱えましたが、角行がこんなことを言っています。 『その日の御恩徳、その日にかえすべし』 今、こんな時だからこそ、この教えを大事にすべきだと思います」 この後、冨士教の行場(素晴らしかった!)にご案内いただき、直会にも参加させていただきました。その様子は割愛しますが、皆様、いろいろとお世話になり、ありがとうございました。本当に素晴らしい時間でした。 あ、人穴レポを書かなくちゃ。。。 つづく。
7月1日は、富士山と同時に、関東各地の富士塚でもお山開きがありました。
昨年は、富士塚めぐりツアーで千住宮元富士などをまわりましたが、今年はTVのロケで4富士に行きました。楽しみつつも、今まで以上の強行軍でありました。個人的にも課題を発見し、思うところは多かった。でも、すんなりいかないことはすべて「修行ということにする」。そうすれば、何でも有り難く思えます。プチ修行だらけの人生だもの(笑)。しかしよく汗かきました〜。 富士塚で出会った方たちも多く、撮影の合間に楽しいおしゃべりもできました。感謝しております♪ さて、6月3日の人穴での「450年記念大祭」です。 角行が富士山で修行を始めた日から、450年経ったことを記念しての祭事です。 行くまで知りませんでしたが、これは「冨士教」によるものでした。冨士教は、藤原角行から村上光清系統の「御法家 ごほうけ」の後を継ぎ、毎年この日に供養祭(角行の没した日でもあるので)があったそうですが、昨年管長がかわられた(第20世)こともあり、今年は「450年記念大祭」として大きなイベントとなったわけです。 冨士教の紋は「富士山」と藤原および藤仏の「藤」が組み合わされています。角行直系という意思表示のようです。(中央の枝の形が十字に見えることから、過去にキリスト教に疑われたことがあるとか) 教師たちに続き、信徒の方たちが続々と入場。 他国出身の方(金比羅さんの宮司でもある)もいらっしゃいました。そして、 白手袋をつけた管長が、あるものを乗せたお盆を高く掲げて入って来ました。 冨士教は、江戸を中心にして広まった富士講とは違って、御殿場を拠点にする宗教法人ですが、御神体は富士山であり、教義内容は角行の残したものですから他の富士山信仰と大きな違いはない。でも、この盆の上のものこそ御法家からの秘物であり、現・冨士教たるゆえんです。 つづく。。。
今日は6月30日。夏越しの大祓いで、茅の輪くぐりをされている人が多いでしょう。私も(下谷坂本富士のお山開きに合わせて)小野照崎神社と、地元の神社ふたつで茅の輪をくぐって来ました(なんと猫実富士のある豊受神社では小野照さんのミニ茅の輪にそっくりの茅の輪守りを頒布していた!)。
さて、去る6月3日。 こんな素敵な茅の輪をくぐらせていただきました。 藤のひと巻きでつくった茅の輪です。生きた藤の花が上部を彩り、美しい! ここは人穴浅間神社です。 人穴にある神社、というか、人穴を管理する神社なのですが、 お墓だらけ。 書行藤仏つまり長谷川(藤原)角行の、修行場かつ住居だったから彼のお墓があるのはわかりますが、 あらゆる(食行身禄ゆかりの) あらゆる(村上光清ゆかりの) お墓がある。その数、300以上と言われています。墓碑にならずとも、骨を埋葬したそうですからすごい!ここは富士山信仰の信徒たちの眠る聖地、つまり浄土であります。明治以前は、大日堂だったので(それは今もありますが)、元お寺なのです。 とはいえ、墓碑であっても富士塚でよく目にする講碑にそっくりなので、 お墓という印象はさほどありません。これはヤマキチファミリーの碑。 そしてこの日、これら墓碑群の間で「450年記念大祭」というものがありました。 つづく。。。
6月3日は、新宿から朝7:10発のバスに乗って山梨へ。予約席は最高!
そして、いつもお世話になっている山梨のKさんの車にピックアップしていただき、女4名は一路人穴を目指しました。昨年の吉田の火祭りでお世話になった、筒屋の奥さんも御一緒です♪ (「お母さまお元気?」と言ってくださり、嬉しい再会♪) 車は反時計まわりで、青木ヶ原樹海を突っ切り、朝霧高原の東(大山行男さんのお宅のドーム型建物も見えました)を走りました。 人穴は富士山の西麓。静岡県富士宮市です。富士山(の中心)から測ってみたら、直線で約12kmの距離でした。ここも富士山の裾野ですが、犬涼山という低い山(溶岩流)の末端にあります。 富士山を挟んで、東12kmの位置には「須走浅間神社」があります。つまり、「人穴---富士山---須走浅間神社」は等間隔にあり、緯度は全く同じです。それゆえ、聖地としての霊力がみなぎるわけですね(今回は、パワースポットという言葉を避けたい気持ち)。 はい。人穴は、長谷川(藤原)角行が籠って修行をした場ではありますが、そのずっとずっと前から聖地だったのです。角行はここを「浄土」としました。 人穴を覗き込んだら、朝日に温められた石段から蒸気がゆらめいていました。 やがて人々が集まってきて、人穴に向かって手を合わせていました。「観光地として知られているのかな」なんて思っていたら、彼らは後に着替えをして現れました。 つづく。。。
出発した場所、神奈川区の熊野神社に戻ってきました。
まわった富士塚は、正確には六富士。かつては、七富士参りに「上菅田富士」も入っていたけれど、最近は行ってなかったそうです。 「上菅田?あれはもうないんです」 上菅田富士の土地の所有者が土地を売って塚を移したのですが、新しい塚は道路と道路にはさまれた狭い場所で、先達もなかなか見つけることができなかったという。(塚の写真を見れば、とても拝みができないくらい小さく狭い) 待つ人もなく、拝みができる場所でもないことから、おそらく縁が切れたとしたのでしょう。 そのかわり、先達の地元の熊野神社を七つ目として、最後の拝みも丁寧に唱えられていました。 拝殿には、先達の奉納した鈴緒があり、六角箱には先達と講の名が刻まれていました。ケヤキでしょう。とても立派です。 丸金講は、青木講と神奈川講に分かれたそうです。先達の神奈川講は、丸金講の元講らしい。 「私が最後で講はなくなるね」 先達の言葉が胸に突き刺さったけど、まわりの者がどうすることもできない。でも、戦中戦後に一旦途絶えたのち、正月の初拝みから復活した神奈川講です。再び同じことが起きないとも言えない。場所にもよるけれど、最近復活する講も存在するのですから! 岩岡先達が、小御嶽神社を大事にするのは、御中道成就の誇りもある。命がけでまわる御中道は、何人もの行者が命を落とした超危険な行程。昭和32年に達成した時の話をしてくれました。 「大きな岩があってね、そこで休んでいたら皆に叱られた。危ないのに何してんだ!って」 大きな岩とは、富士塚にもよく再現されている「不動岩」のことです。確かに、落石が続く急斜面の難所で休むなんて考えられない。 「若かったからね〜」と先達。他にも、講に入ったいきさつや子供の頃のことなど語ってくれました。 先達は粋なシャツに着替え、皆で遅い昼食をとりに出かけました。 本当に一日中、ありがとうございました。 先達の声は、今でも耳の奥でリフレインしています。 「こりとりて あらいながせばみもきよし こころもきよし ふじのみたらし」
本殿にお参りした後は、右隣にある小御嶽神社でも拝みをします。
小さな社のまわりには、 (鼻が欠けた)大天狗 烏(小)天狗 【目黒新富士】のにそっくりの大日如来 歌碑 この配置、70年代(前出の本より)では 左から烏天狗、大天狗、大日如来、歌碑が一列に並んでました。(現在、幼稚園またはその隣の神楽殿のある位置かと思います)向きも違うような。 小御嶽での拝みは、特に長く感じました。小御嶽神社に祀られているのは、コノハナ様の姉であるイワナガ姫です。コノハナに劣る容姿だと言われているけど、イワナガ姫は「長寿」の神様として、富士山信仰の中でも、大変重要な存在です。 もしかしたら、今年で七富士参りを最後にしようかと考えてらっしゃる先達にとって、特別な思い入れがあったのかもしれません。 先達は、平成になってからずっとひとりぼっちで七富士参りを続けてきました。 体調の悪い時もあったでしょうが、信仰心と気力だけが支えだったはず。 でも今年は追っかけ隊も参加し、以前より気力がアップしてきたらしい。今後もどうぞ、無理なくマイペースで、できるかぎり続けて下さい。われわれもまた参加しますから〜。 下山もオモテダイモンから。先達に「富士の人穴」のことを聞きました。すると、 「たしか、あのあたりに穴がありました」
2台の車は、横浜の中心地を目指してビュンビュン走りました。
横浜駅近くの浅間町(旧芝生村 シボウムラ)です。 袖摺り山を浅間山とし、そこに鎮座する芝生浅間(西区浅間)神社をお参りするのもひとつの富士山参りです。 旧東海道に面したオモテダイモンから登ってきたところ。 疲れている頃なのに、先達の足どりは驚くほど軽い。 お歳は80をふたつみっつ越えています。信仰心と気力は体力を後押しするようです。 中腹にポツンと建っている「中道入口」。昔は別のところにあったはず。 「幼稚園こさえるのに山を削ったんだ」 参道をこのまま直進すると幼稚園です。社殿はその左手。 あれ、ここの紋は珍しいね。 (提灯↓ 天水鉢↓ 幼稚園↓) 桜の花だけでも浅間神社や富士神社の紋になるけど、もうひとつの紋、天狗の団扇(?)が組み合わさっている。(浅間神社の多くは団扇だけ) 境内は祭りの準備で華やいだ印象。週末に縁日がでる祭りがあるそうな。 七富士参りの終盤に向け、先達の拝みは特に心がこもっていました。 つづく。。。
われわれも、先達を追います。
土がつるつるして滑りやすいけど、小さい塚(もしかしたら縮小されたかもしれない)なので、すぐに頂上到着。 頂上からは、こんな光景です。まるで車道のド真ん中。車がこちらに向かって来るようなフシギな感覚は、和光市の下新倉富士でも味わえ(笑)ます。 先達は、当時のことを話しました。 「七富士参りで富士塚に着くと、そこの講が接待してくれます。たいてい、どこでもお赤飯とお煮しめが出るんだけど、羽沢で覚えているのは『冷や奴と焼酎』」 右手を指さし、 「昔、ここらは何もなくてね、そこらへんの家もなかった。向こう側に大きな松の木があって、その木の下で休んだもんだ。焼酎くらって、冷や奴とさ。。。」 想像してみました。坂や農道脇をてくてく歩いてまわり、足は棒のようになっているはず。時間がゆったり流れる頃、松の木陰は素晴らしいオアシスだったでしょうね。 松の木は残っていました。いつか、ゆっくり訪れてみたい。ヤッコと焼酎持って。 小さいながらも神様はそこに。 塩と米が3点ずつ供えられていました。 浅間大神(あさまのおおかみ)の文字と山の紋、日輪月輪は陰刻ではない。これは手間のかかる彫り方ね。 近隣在住のTさんが素早く見つけました!その碑の土台に「羽根澤村」の文字。 なるほど〜。今は羽沢(はざわ)だけど、昔は羽根沢(はねさわ)だったのですね〜。 塚の西側を上から見ると、 こんなです。三角の碑が「仙元大菩薩」。やはり横浜には大菩薩が似合う。 でも、ここらには珍しく三山講の碑もありました。 すぐ近くに羽沢小学校があります。 そこの生徒が書いたらしい看板、気に入りましたっ♪ |
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プロフィール
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芙蓉庵 (Yoko Arisaka)
性別:
女性
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▼▼▼【富士塚】とは▼▼▼
………………………………… 富士山に登りたくても登れな い人たちの為に、江戸時代に 関東各地に造られた「人造富 士山」のこと▲です。富士山 を信仰する▲▲▲富士講によ るもので▲▲▲▲▲したが、 地元に▲▲▲▲▲▲▲ミニチ ュア▲▲▲▲▲▲▲▲▲の富 士山が出来たことで、多くの 人が登山でき、大流行しまし た。民衆のパワーですね♪♪ 富士山の溶岩をのせ、一合目 から頂上まで登れるようにな っています。意外なところに ひっそりたたずんでますよ。 ………………………………… ▼▼▼【芙蓉庵】とは▼▼▼ ………………………………… 美しい作品も好きだけど、コ ンセプトありきで表現するこ とに喜びを感じるビジュツ家。 表現形態はこだわりません。 現在、富士塚のコンセプトに インスパイアされ、色々な媒 体で表現。著書の【ご近所富 士山の謎】【富士塚ゆる散歩】 も、私にとっては作品です。 なぜ富士塚か……それは、海 外生活での体験から。詳しく は本のあとがきに記してあり ます。 ★★★★★★★★★★★★★ お問い合わせ、ご連絡は↓ y♡k♡◆ris◆k◆.◆rtist★gm◆il.c♡m (♡をoに◆をaに★を@に変えて 入力して下さい) ★★★★★★★★★★★★★ 掲載の写真・イラスト・文章等の 無断使用・転載は御遠慮下さい ★★★★★★★★★★★★★
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